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「戦地で何が」地獄のインパール作戦…祖父の最後の足跡追った母娘

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西日本新聞

 玄界灘に浮かぶ相島(福岡県新宮町)。セピア色の写真に残る軍服姿の青年はこの島の漁師だった。太平洋戦争開戦翌年、27歳で陸軍に召集された。生まれたばかりの一人娘を残し、「地獄」といわれたビルマ(現ミャンマー)でインパール作戦などに後方支援部隊として参加。飢えや病で仲間が次々倒れゆく中、青年もまた、密林に消えた。 【写真】祖父が生まれ育った相島を背に、「出征を前にじいちゃんはどんな気持ちだったのだろう」と話す友納優子さん  1942年9月、青年は瀬戸内海に面した山口県柳井市の部隊に入隊した。43年3月、前線への輸送任務を行う船舶工兵としてビルマに上陸。開戦半年で英国領だった同国を占領した日本軍に対し、連合国軍はこの年から反撃に転じた。  南北に長いビルマの国土は山河に富む。所属部隊の戦記には「干満差の大きい水路をマングローブの林や夜空の星を頼りに進み、人馬や弾薬の輸送に明け暮れた」とある。  太平洋戦線で戦局が悪化した日本軍は44年3月、事態打開のため連合国軍の拠点、インパール(インド)侵攻に乗り出す。補給を無視した無謀な作戦は失敗、将兵の死体で埋まった撤退路は白骨街道と呼ばれた。  その後も日本軍は重要都市を次々と失っていった。この頃の戦闘に参加した重松一さん(97)=福岡市=は「相手は最新式戦車に機関銃、火炎放射器まである。鉄の塊に鉄砲撃っても何もならん。ただ撃ち殺されるだけだった」と振り返る。

「目を離した隙に…」

 街道を首都へ向けて南進する連合国軍に、日本軍は分断された。ビルマ西部に取り残された将兵たちはペグー山系に集い、幅100メートルを超える大河シッタン河を渡り東部へ撤退しようとした。そこに青年もいた。  青年と同じ師団だった川口善四郎さん(97)=長崎県佐世保市=は、雨期に入り霧煙る密林をなたで切って進んだという。ぬれた体にまとわりつくヒル。わずかな食料を奪い合い、蛇を食べて飢えをしのぐ者もいた。マラリアや赤痢にかかり歩けなくなった兵士は、手りゅう弾を体に当て自爆した。  「取り上げても隠しとると。死ぬときは一緒って励ましても、迷惑掛けられんって。目を離した隙に…」  戦史叢書(そうしょ)によると、ペグー山系に集結した将兵約3万4千人のうち、渡河できたのは約1万5千人。  青年の陸軍戦時名簿には「生死不明 昭和二十年七月十四日 ペグー山系山中ニ於テ」とあった。

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