「戦争に行くような気持ち」マラソン解説者・増田明美、現役時代の日の丸の“重圧”とこれからの挑戦
自暴自棄になり孤独に
「どうせ私はこの世から消えるのだから」 自暴自棄の心境だった。 孤独だったのだろう。そのころ、合宿中もほとんど話さなかった瀬古に電話をしている。五輪本番の2週間前のことだ。増田は尋ねた。 「調子が悪いんです。どうしたらいいですか」 瀬古は、所属チームが違う自分に、関係者から電話番号を聞き出し連絡してきたことで、増田が抱える切迫感に衝撃を受けた。 「やばい感じ、大丈夫かなって感じだったですよ。でも自分も血尿出しているし、前向きな話をひとつもできなかったですね」(瀬古) 瀬古は増田のことを、「10代後半で一気に伸びた早熟ランナーだ」と言う。たかだか20歳のランナーに日の丸を背負わせるのは酷だった。体調も心の調子も回復することはなかった。 ロサンゼルス五輪では、序盤こそ先頭に立つが、徐々に失速。足が動かなくなり、16km地点で途中棄権した。 帰国した日、成田空港に両親と迎えに行ったのを弟の光利さんは覚えている。出発の日は歓声に包まれていたのに、帰国の日はひっそりとしていた。一緒に行った叔母が見つからないように、増田に帽子をそっとかぶせた。それでも見つけた人がいた。 「非国民!」 嫌な言葉をかけてくるのはまたしても年配の人だった。 以降3か月、増田は陸上部の寮にこもる。人の目が気になり外出できなかったのだ。ひたすら腹筋をした。 「私のマラソンの自己ベストは2時間30分30秒なので、その時間で何回腹筋ができるかを自分に課していました。ノンストップで5660回ぐらいできたかな。それをやることで自分を支えてました」 訪れる人は母親だけ。時折、心配して料理を持ってきていた。荷物の中に入っていたファンレターを読むと、誰も責める人はいなかった。心に届いた言葉を見つけた。 「明るさ求めて暗さ見ず」 陸上部をやめ、自宅に戻った。いったんは弟のすすめもあって、夢だった教師を目指して受験勉強に励み、法政大学社会学部(通年スクーリング)に入学するが、授業の合間にランニングすると、また本格的に走りたくなった。