【東日本大震災から10年】あれから10年も、このさき10年も(前編・あのとき仙台は暗かった)Bリーグ・仙台89ERS 代表 志村雄彦
あのとき仙台は暗かった
杜の都・仙台 ── 東北きっての大都市は夜も明るい。しかし、あのときは暗かった。 「普段は仙台に近づくと明るくなるんです。でも暗かったんです。僕、仙台に入ったことがわからなかったんです。気づいたら、事務所の前まで来ていました」 2011年3月12日のことである。 その前日、2011年3月11日、金曜日。午後2時46分。宮城県沖を震源とする大地震が仙台をはじめ、東北地方を襲った。巨大な津波も発生し、人と街を一気に飲み込んでいった。東日本大震災である。 あれから10年 ── 仙台89ERS(以下、ナイナーズ)の代表取締役社長になった志村雄彦は当時をそう振り返る。 あの日、ナイナーズのプレーヤーだった志村は新潟に向かうバスのなかにいた。東北自動車道で郡山を経由して新潟へ。その最初の休憩場所となる宮城県内のサービスエリアでかなり強い揺れを感じた。 車内のテレビで一定の情報は得られるものの、詳細まではつかめない。新潟にはたどり着いたが、リーグの判断で翌日からのゲームはキャンセル。一泊して仙台に戻ることになった。しかし高速道路が使えず、山形経由の一般道で帰ったため、通常であれば3~4時間で着くところが倍以上も時間を要した。仙台に着いたのは12日の夜だったが、冒頭のように仙台市内は真っ暗だったという。わずか光がついているのは中心部、宮城県庁や仙台市役所のあたりだけ。通常であれば、周りの光にまぎれるそれらの光が、志村の目にははっきりとわかったというのである。
仙台人として「この街のために頑張ろう」
志村は、コーチをしている両親の影響もあって幼い頃からバスケットに通じていた。仙台高校時代は、現・仙台大学附属明成を率いる佐藤久夫コーチのもとで日本一も経験している。慶應義塾大学に進み、そこでも日本一を経験。東芝(現・川崎ブレイブサンダース)に入社をするが3年で退社し、2008年、地元のプロチーム、仙台89ERSにドラフトで入団し直している。160センチと小柄ではあるが、誰よりも熱いプレーでチームを引っ張り、ファンを魅了したポイントガードである。 しかし当時の志村はまだ若く、バスケットを単なる仕事としか捉えていなかった。むろん幼い頃から打ち込んできたスポーツを仕事にできることは幸せなことである。そう感じてもいたが、お金を稼ぐひとつの手段にすぎないと思うところがあった。 また仙台という自らの故郷についても、もちろん愛着はあったが、深い愛情を表に出すこともなかった。 「仙台は東北の中では大きい街、中核都市ですが、あまり『仙台、仙台』って言わないんですよね。関西や九州、名古屋の人たちと比べると控えめで、それほど郷土愛を前面に押し出さないんです」 その考えが東日本大震災を境にして180度変わる。「この街のために頑張ろう」、「この街のためにプレーしよう」と胸に刻んで、コートに立つようになったのである。 「あの地震が起きて以降、僕は一人の人間として自分の故郷にどのような恩返しができるのか、震災から復興していく中で、自分がどう影響を与えられるかを考えるようになりました。そしてまずはプレーし続けることだと思ったんですね」 そのシーズンはチームの活動停止を受け、琉球ゴールデンキングスに期限付き移籍をしてプレー。翌シーズン仙台に戻って、引退する2017-18シーズンまでプレーを続けた。 「ナイナーズの試合を見たいときに見られなかったり、本当は地震のあった翌週に見に来ようとしていた子どもが見られなくなったり、家がなくなったりした子もいたなかで、自分には元気な体があり、バスケットができていたので、それをやり続けなければいけないなと。地元の選手ですし、仙台に育てられたと思っているので、仙台のため、宮城のためにプレーする思いで現役時代はやっていました」 2013年、プロ野球の東北楽天ゴールデンイーグルス(以下、楽天)が球団史上初のパリーグ制覇、日本シリーズでも優勝し、復興の一歩を踏み出していた街を一気に盛り上げた。その楽天が復興のシンボルのひとつとして仙台のなかで存在感を一気に増していくさまを志村は目の当たりにした。 「阪神淡路大震災のあとにオリックス・ブルーウェーブが優勝したこともそうですし、スポーツが街やコミュニティーに与えるインパクトが大きいことを伝えるいくつかの事例があったので、それを僕はバスケットでやろうと考えていたんです。勝つことがこの街の希望だと思ってプレーしていました」 宮城県人として、仙台人として、宮城の人たちのために、仙台の人たちのためにバスケットをしよう。勝とう。その思いは現役を退いた今も変わらない。