「日産240RS」はWRC参戦のために開発、シルビア110系RSをベースに100ps/Lを叩き出す200台限定のモンスターマシン【今日は何の日?10月6日】
一年365日。毎日が何かの記念日である。本日は、新たに規定されたWRCグループBに参戦するために日産自動車が3代目S110系シルビアRSをベースにした高性能マシン「日産240RS」を開発、翌年から本格参戦することを公表した日だ。 TEXT:竹村 純(Jun TAKEMURA)/PHOTO:前田惠介、三栄・オートスポーツ、ラリー&クラシックス ■WRCグループB仕様の日産240RSを開発 日産240RSの詳しい記事を見る 1982(昭和57)年10月5日、日産自動車はWRCグループBに参戦するための高性能マシン「日産240RS」を開発したことを公表。3代目110系「シルビアRS」をベースに新開発した高性能FJ24エンジンを搭載しハイチューニングを施した結果、NAながら100ps/Lを叩き出したのだ。 日産ラリーの輝かしい歴史 日産の海外ラリーの歴史は、1958年のオーストラリア・モービルガス・ラリーで「ダットサン210」が初参戦でAクラス優勝を飾ったことから始まった。 その後も積極的に世界ラリーに挑戦、特に当時最も過酷で人気が高かったサファリラリーを中心に挑戦を続け、1966年に2代目410系「ブルーバード1300SS」でサファリラリーのクラス優勝を飾った。ベースが3代目510系ブルーバードに切り替わり、1969年には「ブルーバード1600SSS」がクラス優勝、翌1970年には念願の総合優勝を果たした。 510系ブルーバードの後継として主力マシンとなったのは、スポーツカーの「ダットサン240Z」だった。1971年のサファリラリーではデビューの年ながら総合優勝して翌年に連覇を果たした。さらに、その後を引き継いだ2代目A10系「バイオレット」は、1979年から4連覇という偉業を成し遂げ、まさに“ラリーの日産”の名を世界に轟かせた。 日産240RSのベースとなった3代目S110系シルビアRS 1983年、モータースポーツの車両規定が一新。それまでグループ1~4で争われていたWRCも主役がグループBに置き換えられることになった。これに応える格好で、グループB仕様マシンのベース車として選ばれたのが1979年にデビューした3代目S110系「シルビア」だ。 S110系シルビアは、走りを重視したスペシャリティカーとして人気を獲得。直線基調の低いノーズラインと角目4灯のフロントマスク、傾斜したフロントウインドウ、リアのオペラウインドウが特徴だった。デビュー当初のエンジンは、1.8L(115ps)と2.0L(120ps)の直4 SOHCがベースだった。 1981年のマイナーチェンジで、「スカイラインRS」に搭載されていた最高出力150ps/最大トルク18.5kgmの2.0L直4 DOHC(FJ20)を搭載した「シルビアRS」が登場、これが日産240RSのベースとなったのだ。 WRCグループB仕様の日産240RS誕生 日産240RSは、シルビアRSをベースにさらなる高性能化を目指して徹底的なハイチューニングが施された。 ボディは、全長を70mm短縮、全幅は120mm拡大、全高は同じで、前後バンパーやボンネット、オーバーフェンダー、スポイラーもFRP製、ラミネートガラスのフロントウインドウの採用などで、車重はベースより115kg軽い970kgに抑えられた。 搭載エンジンは、240RSのために専用開発されたFJ24で、シルビアRSのFJ20よりさらに排気量を拡大した2.4L直4 DOHCにミクニソレックスを2連装し、最高出力240ps/最大トルク24.0kgmまで向上。トランスミッションは、エンジンに合わせてレーシング仕様のクロスレシオ5速直結MTが組み合わされた。ちなみにレース仕様は、280ps/26.5kgmまで高められたとされている。 WRCグループBのホモロゲーションを取得するために必要な生産台数200台は、海外での使用を前提としていたため左ハンドル仕様が150台、右ハンドル仕様が50台。そのうち約30台が日産ワークスカーとして使われ、残りが海外で販売された。後に10数台が逆輸入されたとされ、非常にレアなモデルとなっているのだ。 ・・・・・・・・ 日産240RSは、1983年ついにWRC参戦を果たし、ニュージーランドラリーでは2位に入賞する活躍を見せた。しかし、1981年にアウディクアトロの画期的な4WDマシンが登場してWRCを席巻し、4WDターボのラリーマシンが台頭し出した時代ということもあり、日産240RSは念願の栄冠を掴むことなくWRCから撤退することになってしまった。 毎日が何かの記念日。今日がなにかの記念日になるかもしれない。
竹村 純