【連載 名力士ライバル列伝】大関貴ノ花編 最大の恩人、横綱玉の海正洋
大横綱を倒して節目を刻み、 輪島、北の湖などの好敵手たちと新たな時代を築いた貴ノ花。 ウルフに時代を託すまで、“プリンス”の周囲にはきらびやかな星たちが輝いていた。 ※平成28~30年発行『名力士風雲録』連載「ライバル列伝」を一部編集。毎週金曜日に公開します。 貴ノ花と玉の海の対戦成績
小さくても大きな相撲を プリンスに勇気与える
十両に陥落した昭和44(1969)年の、とある暑い夏の日。貴ノ花は同門の先輩に猛稽古をつけてもらったことがある。互いに汗だくとなっての1時間。「もういいです」と音を上げた後輩に、「あと5番やろう」と先輩は叱咤。そしてこう続けた。 「満、お前も苦しいだろうが、オレも苦しいんだぞ!」 その先輩が、当時大関だった片男波部屋の玉の海(当時玉乃島)である。 「強くしてやろう」と親身になり、体を張ってくれただけではない。投げの打ち方など技術面まで丁寧に教えてくれるその姿勢に、貴ノ花は強く心を打たれた。 「必ず“恩返し”をしなければ」。同年九州場所でも連日玉の海に稽古をつけてもらい、メキメキと力を付けて2度目の十両優勝、再入幕を果たしたのだった。 初めての“恩返し”の機会は、玉の海の新横綱の場所、昭和45年春場所5日目だったが、得意の左四つになりながらも、最後は力尽き寄り切られた。その後も善戦はしながらも初勝利は遠い。 昭和46年秋場所7日目も、外掛けで一瞬勝機をつかんだかに見えたが、土俵際で両ワキを抱えられ、櫓投げのように吊り出されてしまう。「外掛けにはぐらっときた。強くなったよ」と認めた横綱に対し、対戦7連敗の貴ノ花は報道陣の問いかけに無言。 悔しさを内に秘め、8度目の正直へ。しかし――。10月11日、玉の海急逝。“恩返し”の機会を失った貴ノ花は、ただ茫然とするしかなかった。 「体が小さくても大きな相撲をとれ。全力で取れば、必ずお客さんは喜んでくれる」と玉の海は常々助言をくれた。 土俵際での粘り腰、体全体を使っての豪快な取り口。そうした横綱の在りし日の姿は、引退の日まで貴ノ花の見本であり、心の支えであり続けた。 『名力士風雲録』第7号貴ノ花掲載
相撲編集部