半藤一利さんが「100年」の単位に込めた意味 保阪正康の「不可視の視点」<特別編>(2)
半藤一利さん(享年90)の遺言として、私はいくつかの大切な言葉があると受け止めている。むろん半藤さんは、特に遺言として言葉を残したわけではない。年齢から言って、死を受け入れる心境にはなっていただろうが、かと言って今年の1月12日に死が訪れるとは考えていなかったように、私には思える。従って半藤さんとの交流の中で、私が遺言として受け入れている言葉を語っていきたいと思う。 ■「日本社会が四文字七音の世界に没入したなら、時代は危険だということだよ」 ひとつは、「絶対」という言葉を使わないという覚悟なのだが、これについては前回に書いた通りで皇民教育への怒りが背景にある。事象を相対的に見なければ、また軍事ファシズムへの道に入り込んでしまうとの怒りである。私は、この言葉を使わない半藤さんの心理に潜んでいる歴史観こそ、もっと検証されるべきだと思う。もうひとつは、四文字七音を安易に用いるな、ということであった。これは私との雑談でも何度か繰り返していた。幕末維新から現代まで、日本人はこの四文字七音が大好きなのである。 いくつか思いつくままに並べてみよう。尊皇攘夷、大政奉還、公武合体、富国強兵、昭和に入ってからも王道楽土、五族協和、国体明徴、万世一系、一億一心、聖戦完遂などがすぐに浮かぶ。これはいわば左翼的な運動でも同じで闘争勝利、要求貫徹などが次々に浮かんでくる。日本人の心情に合うリズムなのかもしれない。同時にこれは日本人の感性に合致して、その段階で思考が止まってしまうということでもあろう。つまり考えることを放棄してしまうのである。その上で陶酔に陥るのだ。半藤さんは、「日本社会が四文字七音の世界に没入したなら、時代は危険だということだよ」と晩年には何度か繰り返していた。同時にそのような原稿も書いて注意を促していたのである。
どんなことでも100年続くのであれば、それは強固な意思になる
そしてもう一つ、半藤さんは重要な事実を指摘していた。「100年」を単位として捉えよ、ということであった。どんなことでも100年続くのであれば、それは強固な意思になるという考え方であった。雑談の折にも、100年というのは大切な単位だというのである。私的な話になるのだが、私も半藤さんも現在の憲法については独自の考え方をもっていた。「とにかく現在の憲法を100年持たせよう」という考えであった。そうすれば不戦は日本の国家意思になるであろうというのが、その理由であった。私と半藤さんは、そのために講演会などで最後にでも必ず、憲法100年持続説を口にすることにした。聴衆の中から、事務局はどこですか、とか代表は?と言ったような質問が飛ぶこともある。 そういうときは、私たちの答えも決まっていた。事務局はありません、代表もいません、賛成する人がそれぞれ自分でそう思えばいいのです、というのが答えであった。この運動を広げようというつもりもなく、二人の約束事だったのである。 半藤さんはなぜ「100年」という単位になぜこだわるのか、私はそのことに興味を持った。そして意外な事実を知った。そのことも書いておかなければならないであろう。