ノーノー経験者の柴田保光氏がパンチ佐藤氏を抑え込んだ理由とは?/パンチ佐藤の漢の背中!
1980年代から90年代前半にかけ、ファイターズの先発の柱として大活躍した右腕・柴田保光さんは現在、什器(じゅうき)のレンタル・リース業最大手である「株式会社山元」の所沢商品センターに勤務している。オリックスでの現役時代に対戦経験のあるパンチさんとは、それ以来の再会。通算7打数1安打と抑え込まれた理由が、30年ぶりに明らかとなった! ※『ベースボールマガジン』2020年6月号より転載
打倒・山本功児さんが最初のモチベーション
島原農業高校に進学し、柔道部に入部した若き日の柴田さん。ところが毎日のように投げられてばかりで、イヤになった。顧問の先生に「退部させてください」と申し出たら、「他の運動部に入るなら、許してやる」。そこで、たまたま近所の先輩が所属していた軟式野球部を選んだ。それが、野球との出合いだった。 パンチ 柴田さんは高校時代、プロはまったく考えなかったんですか? 柴田 僕は野球を始めたのも高校からだったし、それも軟式野球部だったので。社会人に行ってからですね。初めて硬式球を握って、「プロに行きたいな」と思って、毎日走り始めたんです。球のスピードはあったけど、コントロールはからきしだったから。 パンチ その「プロに行ってみたいな」と思ったきっかけは、何かあったのでしょうか。 柴田 高卒後、名古屋の丹羽鉦電機という社会人野球チームに入ったんですよ。たまたま社会人野球の大会で本田技研鈴鹿相手に投げたら、そこに山本功児さん(元巨人ほか)がいてね。僕、カパーンっとホームランを打たれちゃったんですよ。「次は絶対、この人を抑えてやる」って思ってね。 パンチ プロ注の人に打たれて「ああ、やっぱり違うな」と思うんじゃなく、逆に火が付いたんですね。 柴田 この人を抑えるのにはもっと球を速くしなくちゃいけないし、コントロールも良くしなくちゃ……っていろいろ考えていたら、チームが廃部になっちゃった。それで島田誠さん、川原昭二さん(ともに元日本ハム)と「自分たちでクラブチームを作ろう」と言って九州に帰り、『あけぼの通商』でチームを作ったんです。 パンチ 自分たちでチームを作っちゃったんですか? すごいバイタリティーですね。 柴田 ただ練習試合ではよく勝ったんだけど、公式戦では絶対に負けるチームだったんですよ。なぜかというと、旅費がないから負けろって(笑)。 パンチ(笑)。でもそこを、西武のスカウトが見ていたわけですね。 柴田 西武以外も来ていましたよ。日本ハムが2位で指名するという話もあったんだけど、結局来なくて、西武が2位で手を挙げてきた。初めは僕、「東京には行きたくない」って言ったんです。そうしたら根本(根本陸夫)の親父が、「俺が最後まで見てやるから来い」って。