Yahoo!ニュース

IDでもっと便利に新規取得

ログイン

司馬懿(しばい)仲達とその一族~三国統一にいたる血脈【中国歴史夜話】

配信

サライ.jp

司馬懿(しばい。179~251)は、三国志のかくれた主役と呼べるかもしれない。おおかたのイメージでは、諸葛孔明の好敵手という役回りだろうが、ご存じのとおり、最終的に天下を統一したのは、彼の孫・司馬炎が樹立した晋王朝である。司馬懿は実質的な創業者として、のちに「宣帝」の名を贈られている。本稿では、最後の勝利者ともいうべき司馬一族の血脈と、天下平定にいたる道のりを追う。

司馬家の八達

司馬懿の生家は河内郡温県(河南省)の名門。父の司馬防は都で官吏として要職を歴任したが、このとき若き曹操を尉(警察長官)に推挙したという話がのこっている。事実とすれば、これが司馬家と曹一族の出会いとなる。 司馬防はきわめて厳格な人物だったらしく、息子たちは成人してもなお、ゆるしがなければ父のまえでは座らず、問われた内容以外のことばを発することもなかったという。8人の息子たちはそろって優秀だったため、「司馬家の八達」と称された。みな、字(あざな。通称)に「達」の文字がついていたからである。司馬懿の字はよく知られているように「仲達」だが、「仲」は次男であることを意味する。若くして大器との評判がたち、人材獲得に熱心だった曹操から仕官の声がかかった。いちどは病を口実にことわったものの、再度の要請を受け、しりぞければ身があやういと感じて応じる。赤壁の戦い(208)と同年のことであった。 正史「晋書」では、出仕を渋ったのは漢王朝への忠義心からとするが、その生涯を顧みると、司馬懿はもっと怜悧な人物だったように思える。のちに魏を簒奪(さんだつ)する司馬氏としては、意に染まぬ仕官だったというストーリーを作りたかったのかもしれない。

孔明との初対決

曹操の幕下へ参じた司馬懿は、冷徹な洞察力でたちまち頭角をあらわしてゆく。西暦219年、劉備配下の勇将・関羽が都をおびやかし、さすがの曹操も遷都を考えるまでに追いつめられた。このとき諫言し、思いとどまらせたのが司馬懿であり、のみならず呉の孫権に関羽の背後を突かせるよう進言する。この献策が容れられ、関羽は呉に討たれることとなった。 曹操は司馬懿の才を警戒していた節があり、世子・曹丕(魏の文帝)に注意をうながしている。が、司馬懿は曹丕の治世下でこれまで以上に重用され、その死(226)に際し後事を託されるまでになった。ここでしりぞけられていれば、のちの晋王朝はなかっただろう。運命の数奇というものを思わずにはいられない。 231年、魏討伐を果たすべく、諸葛孔明が祁山(きざん。甘粛省)へ進出。魏軍をひきいる司馬懿と孔明が、はじめて正面から対峙する。この折、司馬懿は徹底的な籠城戦術を取った。部将たちの突き上げを抑えきれず、一度は打って出たものの、これが惨敗に終わってからはいっさいの攻撃をひかえる。食糧が尽きた蜀軍は、ついに撤退を余儀なくされたのだった。

【関連記事】