デビュー戦から「1-2」フィニッシュ! 現存1台のディマ1100(1) フィアットの4気筒でGPへ
デビュー戦から1-2フィニッシュ
1951年3月11日、ポルトガル・リスボン近郊のアラビダ公園で開かれたのが、カンピオナート・ナシオナル・デ・ランパというレース。マテウはこれに合わせて、2台のディマ1100を仕上げた。 真っ赤に塗装されたスポーツレーサーは、見事にデビュー戦で1-2フィニッシュ。北部のファルペラという町で開かれたヒルクライム・レースでも、優勝を勝ち取った。 昇り調子を掴んだマテウは、6月のポルトガル・グランプリを想定し、3台目も製作。有望な若手ドライバー、フランシスコ・コルテ=レアル・ペレイラ氏を加え、多くの注目を集めた。 ポルトガル・グランプリでは、フェラーリ166 MMやジャガーXK120などが上位争いを繰り広げたが、そこへディマ1100も参戦。26台が市街地で速さを競うドラマを、大勢の観衆が見届けた。 市立公園の周囲を回るコースは、全長7.4kmほど。美しい景観が自慢といえたが、舗装は石畳で、路面電車の線路が交差し、ドライバーが眺めている余裕はなかった。 3時間という長丁場で、ドライバーの1人、デ・メロは姿勢を崩しスピン。干し草のブロックへ衝突し、横転してしまう。幸いにも目立った怪我はなかったが、マシンは大破しリタイアへ追い込まれた。 続くようにシマスもリタイアする一方、ペレイラは完走。アバルトを抑えて、クラス優勝を掴み取った。クラス上のマシン、2台のアラードJ2と1台のドラージュD6-3Lにも勝っている。
楽観的に量産モデルの開発へ着手
翌1952年シーズンも、ディマ1100による積極的な戦いは続いた。損傷したボディを修復する傍らで、エアインテークとフェンダー・ラインを改良。空気抵抗の低減が図られつつ、マシンはDMと呼ばれるようになった。 またライバルチームだった、フランスのパナールは、スタイリングが似ていることへ抗議。差別化するため、マテウはボンネット上にあったエアインテークをオフセットさせ、特徴的な姿が作られた。 ドライバーも交代。シマスに代わり、ジョアキン・フィリペ・ノゲイラ氏が招聘された。ちなみに彼は、後にF3へステップアップしている。 ポルトガル・ボアヴィスタの市街地コースを舞台にした、1952年のボアヴィスタ・グランプリでは、同クラスのライバルチームが軒並みリタイア。ノゲイラは最下位だったが、3台のDMは1100cc以下でクラス優勝。1-2-3フィニッシュという栄光に輝いた。 モータースポーツでの活躍により、マテウ・ブランドの知名度も拡大。シムカとオースチンのエンジンや、フィアットのチューニングパーツをポルトガルで販売できる契約を結ぶに至った。 さらにマテウは、楽観的に量産モデルの開発にも着手。仕事は速く、1953年にはスポーツレーサーのような一体ボディが被された、ファストバック・クーペが試作されている。柔らかなクリーム色に塗装されて。 この続きは、現存1台のディマ1100(2)にて。
アーロン・マッケイ(執筆) 中嶋健治(翻訳)