デビュー戦から「1-2」フィニッシュ! 現存1台のディマ1100(1) フィアットの4気筒でGPへ
ポルトガルで高まったモータースポーツ人気
限られたパワーを活用する技術は、90年前のポルトガルで高く評価されていた。エアインテークから沢山の空気を吸い込み、ガソリンを効率的に燃焼させ、手強いワインディングを小さなマシンは駆け登った。 【写真】デビュー戦から「1-2」フィニッシュ! ディマ1100 同時期のスポーツモデルと比較 (138枚) 1935年に全国ヒルクライム選手権の創設に至ったポルトガルでは、アドレナリンを欲した裕福なドライバーが、国土へ広がる山脈の道を攻め込んだ。ドライバーの賢明な変速と、断崖絶壁へひるまない勇気も必要とされたが。 第二次大戦を挟んでも、モータースポーツの熱気は冷めなかった。国際大会が開かれるようになり、ボアヴィスタやビラ・レアルなどの古い町は市街地コースになった。新しいサーキットも整備された。 観客の多くは、フェラーリやアルファ・ロメオなど、東からやってくるエキゾチックなスポーツレーサーへ魅了された。しかし、改造されたフィアット1100、508C サルーンがグリッドへ並ぶ姿へ、影響を受けた人も少なからず存在した。 そんな1人が、ディオニシオ・マテウ氏。ポルトガル中東部のボアヴィスタで、1950年に開催されたレースの優勝ドライバー、エミリオ・ロマーノ氏へ接近。彼が駆るチシタリア・アバルト204Aを売って欲しいと願い出た。 だが、ミッレ・ミリアでの経験も持つ彼は、想定外の高額を提示した。マテウの申し出を断るつもりだったのか、1951年から運転することになる、フェラーリ166の資金調達の一環だったのか、理由は定かではない。
チシタリア・シャシーでスポーツレーサー開発
それでも彼は諦めなかった。イタリア・トリノの、今はなきチシタリアへ連絡。後ろがリーフスプリングにリジッドアクスル、前がトーションバー・スプリングという構成のサスペンションを持つ、チューブラーフレーム・シャシーを購入する。 エンジンは、イタリアのチューニングガレージ、スタンゲリーニ社から調達。独自設計の吸気マニホールドと、2基のソレックス・キャブレターがフィアットの4気筒ユニットへ与えられ、66psの最高出力を発揮した。 1951年シーズンを視野に、マテウは準備を整えた。技術者数名へ声をかけ、部品の手配や製造を依頼。また彼自身も、自宅で複数の部品を製作したようだ。エリシオ・デ・メロ氏とジュリオ・シマス氏を、チームのパートナーとしても迎えた。 アルミニウム製ボディを手掛けたのは、オート・フェデラル社。職人がハンマーを叩き、艷やかな曲面を生み出した。 かくして完成したのが、シンプルなシルエットのスポーツレーサー、ディマ1100。格子状のフロントグリルの両脇へ、丸いヘッドライトが並んだ。フォルムは、チシタリアへ影響を受けたものといえた。 同時期にポルトガルで作られた別のスポーツレーサー、フィアット・アドラー・パリニャスとも似ていた。経験を積んだドライバー、フェルナンド・パリニャス氏が、1950年のボアヴィスタで、ロマーノに次ぐ2位を掴んだマシンだ。 興味深いことに、アドラー・パリニャスは、1951年に別のアルミ製ボディへ載せ替えられている。こちらは、同時期のオスカへ似ていた。