【長嶋茂雄は何がすごかったのか?】『プロ野球ニュース』の名司会者・佐々木信也が語る"ミスタープロ野球"<後編>
佐々木 実力差はかなりあったと思いますよ。単独チームだったり、選抜チームだったりしましたが、ピッチャーの投げるボール、バッターの打球の速さ、飛距離がまったく違いました。後楽園球場の外野スタンドを軽々と超えていきましたからね。 ――いわゆる場外ホームランですね。 佐々木 1956年にたまたまに僕が日本代表に選ばれて日本中を旅しましたが、練習を見ても試合をしても、「こんなのを相手にしたらたまらない。とてもかなわない」と思いました。日本勢でただひとりいい勝負をしたのが、中西太(西鉄ライオンズ)でした。身長は174センチでしたが、スケールは大きかった。 ――将来、大谷翔平選手(ロサンゼルス・ドジャース)のように、メジャーでホームラン王を獲得する日本人選手が出てくると思いましたか。 佐々木 日本人があれだけの活躍をすることは想像もできませんでした。今回で彼は3度目のMVP受賞ですね。大谷くんの場合、まだまだ伸びますね。ただバットを振り回すだけではなくて、たしかな技術を備えています。 ――あの時代、もし長嶋さんがメジャーでプレーしていたら? 佐々木 うん。長嶋と王なら、メジャーの選手たちと対等に戦えたと思います。当然、レギュラーになれたでしょう。アメリカでプレーさせてみたかったですね。 あのふたりは日本のプロ野球の中では別格でした。あれほどずば抜けた選手は、彼ら以外にいなかった。プロの選手たちの誰もが一目置く存在でしたからね。 ――今後、日本球界から長嶋さんのような選手は出現するでしょうか。 佐々木 きっと生まれてくるでしょう。でも、長嶋みたいに、あんなに威勢の選手は出てこないかもしれないなあ(笑)。70年近く経った今でも、フィリピンのホテルのベッドから長嶋が落ちたこと、サードからの二塁への送球が本当にすごかったことは忘れられませんね。 次回の更新は1月中旬以降を予定しています。 ■佐々木信也(ささき・しんや) 1933年、神奈川県出身。湘南高校時代には甲子園で優勝し、その後慶応大学で二塁手として活躍した後、1956年に高橋ユニオンズに入団。1959年の引退後は野球解説者に転身し、1976年よりフジテレビの『プロ野球ニュース』の司会者に就任、ソフトな語り口でファンを魅了。プロ野球のファンを増やし、ファン層を拡げた功労者として昭和プロ野球ファンの記憶に残り続けている 取材・文/元永知宏