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主従ではなくて平等ーー。和人とアイヌが混住していた北海道の戦国時代【「半島をゆく」知られざる北海道の歴史】

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サライ.jp

『サライ』本誌で連載中の歴史作家・安部龍太郎氏による歴史紀行「半島をゆく」と連動して、『サライ.jp』では歴史学者・藤田達生氏(三重大学教授)による《歴史解説編》をお届けします。 文/藤田達生(三重大学教授) 私たちは、勝山館の大手の柵列跡から大規模な堀切を越えて、かつての城道を下っていった。アイヌと和人の混住については、勝山館跡ガイダンス施設で解説されていたが、夷王山墳墓群から勝山館跡へと歩きながら頭から離れなかった。

四国出身の筆者は、アイヌといえば幼い頃にテレビで伊藤久男の「イヨマンテの夜」を聞いて「熊送り」を知ったことを思い出すぐらいである。ただし、大学院生時代になると北方への興味が強まった。

前回書いたように、道南の各地で本格的な発掘が始まって、館やチャシ(アイヌの砦)の実態が徐々にではあるが、知られるようになったからである。近年では、毎年のように北海道で観光を兼ねた調査をおこなっている。 アイヌ民族ではじめて国会議員となった故萱野茂氏の名著『萱野茂のアイヌ語辞典』は、発売後すぐに購入し、言葉の世界からアイヌ文化を学んだ。山田孝子氏の『アイヌの世界観』は、いささか難解だったが、この世とあの世を反転した世界とするアイヌの他界観が、特に興味深かった。これらを通じて、樺太からロシアに通じる北方民族の世界を意識した。昨年は、北方領土を船から観察したり、念願のサハリン行きも実現した。 それらを通じて、無意識にではあるが、「違い」ばかりを学んでいたことに気づいた。今回、直接突きつけられた戦国時代の勝山館における「混住」の事実は重かった。山田氏の主張の重要性は、アイヌ社会における男女平等原理の指摘を通じて、従来の男性中心のジェンダー研究のひずみを指摘したことだ。 このような研究の影響だろうか、たとえば人気マンガ「ゴールデンカムイ」で描かれたコタン(集落)の生活の描写からは、男と女、大人と子供のフラットなイメージを感じる。 本州から道南に持ち込まれた中世日本の主従制や家父長制の原理と、アイヌの平等原理は対立しており、それがコシャマインの蜂起(1457年)やシャクシャインの蜂起(1669年)の背景だったと、筆者は勝手に理解していた。 今回の旅を通じて、戦国時代の和人がなんとか道南のわずかな拠点に張り付くように生活していたことを実感した。蠣崎氏や武田氏に北の戦国大名的なイメージをもっていたのだが、勝手な独りよがりだったこともわかった。 これらは、江戸時代に作られた松前藩による「和人史観」だったのだ。これまで見てきたように、道南十二館には、戦国城郭の特徴である本丸を最高所として下に広がる垂直的な縄張は少なく、横に広がる縄張を特徴としていた。 館内部では、主従の上下関係よりも、一揆的なフラットな関係のほうが強かったのであろう。広大な蝦夷地のアイヌ世界のなかに和人地が設定され、和人が館をベースキャンプに、交易を糧に居住している、というイメージが筆者のなかに鮮明に浮き上がってきたのである。 米が作れない蝦夷地において、唯一交易のみが生活を保障したのだから、館内外における平和が大前提だった。したがって、混住も上下関係のみから理解することはできない。和人は、アイヌとの対立をできるだ避けたかったに違いないからである。 永正11年(1514)、蠣崎光広は勝山館から大館(松前)へと本拠地を移転する。勝山館は廃城になるのではなく、城代が置かれた。移転の背景には、日本海のみならず太平洋の交易をも掌握する意図があったと理解されている。 さらに、永禄3年(1560)には、蠣崎慶広が津軽浪岡御所北畠具運(きたばたけ・ともかず)に拝謁し、東北地方の大動脈であった奥大道の終着点・大浜に接した潮潟(うしおがた)野田玉川村(青森市)を与えられたという。一貫した、交易優先の姿勢である。

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