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『麒麟がくる』で注目の明智光秀は“むっつりサラリーマン武将”? NHK『DJ日本史』公式本が発売!

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天下の知将として知られ、本能寺で織田信長を討った明智光秀(あけち・みつひで)。その史実は大変有名ですが、明智光秀の人柄はあまり知られていません。残酷でイヤなやつだったという説もありますが、さまざまなエピソードとともに明智光秀の人柄をご紹介します。

明智光秀は緻密かつ狡猾な策略家だった

明智光秀の性格に関してはいまだに謎に包まれている部分があるものの、概ね真面目で軍事や政治の能力も高かったと伝えられている。その一方で、常に策略を巡らせているという側面もあったという。 信長に仕えたときのエピソードからも光秀の策略家ぶりが窺える。光秀は当初、義昭に仕えていたものの、名門・足利家も信長によって京都を追放されて没落の兆しが見え始めると信長の家臣へとあっさり鞍替え。今で言えば、長年世話になった会社の景気が悪化してきたことを見越して、伸び盛りのベンチャー企業へと転職するようなものだろう。 信長は光秀の軍事能力や行政手腕を認め、新参者でありながら重要なポストを任せるようになった。光秀は織田家の家臣のなかで、秀吉よりもその存在感は大きかったとの説もある。しかし、信長は光秀をどこか信用しきってはいない様子だったともいう。後年、本能寺の変で謀反を起こされたときに信長は「殿、退路を!」と口々に叫ぶ家臣を制して、「無駄だ。あのハゲに抜かりがあるはずがない」と言ったとも伝わる。 信長だけでなく、信長のほかの家臣たちも光秀をうさん臭く感じていたようで、特に織田家に長年仕えてきた重臣たちは光秀を嫌っていたという。

明智光秀が比叡山焼き討ちで見せた残酷さ

明智光秀にはまた、残酷な面もあったようだ。 1571年の信長による比叡山延暦寺焼き討ちでは、信長軍は12万もの大軍でわずか4000の敵兵を完膚なきまでに打ちのめし、ほぼ殲滅(せんめつ)させたといわれる。このとき信長は、生き残った者たちを尋問し、不審な者は殺害せよと配下に命じたという。従来の説では、この比叡山焼き討ちを強引に進めようとする信長を光秀がいさめたとされているが、実のところ、光秀はむしろ焼き討ちに積極的だったという。その証拠に、光秀はこんな内容の手紙を残している。 「敵方の村を撫で斬りにしてやるのだ」 焼き討ちでは僧侶、学僧、上人はもちろん、子どもに至るまで容赦なく殺害したという。 焼き討ちののち、信長から比叡山が持っていた領土の支配を任された光秀は、周辺の土地も強引な方法で貪欲に奪っていく。目的を達成するためなら手段を選ばず、どんなに残酷な仕打ちでも眉一つ動かさずに実行する性格だったのだろう。 当時、ポルトガルから来日していた宣教師のルイス・フロイスは光秀について「彼は裏切りや密会を好み、刑罰を科すときは残酷かつ独裁的だった。己を偽り、偽装するのに抜け目がなく、戦争では謀略に優れていた。また友人には“人を欺くために72の方法を会得した”と語っていた」と書き記している。 第三者の視点からも、光秀がいかに狡猾で謀略に長けた人物だったのかが窺われる。

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