軍師・竹中半兵衛の御殿か 菩提山城跡の山頂に礎石10基 岐阜
豊臣秀吉の軍師として知られる戦国武将、竹中半兵衛の居城だった「菩提山城跡」(岐阜県垂井町)の発掘調査で、山頂の主郭部から建物の柱を支える礎石10基が見つかった。16世紀後半に築かれたものと考えられ、規模や周辺の出土物などから半兵衛が暮らしていた御殿とみられる。これまで半兵衛は山のふもとで暮らし、菩提山城は敵が攻めてきた時に詰める砦(とりで)と考えられていたが、平時も山城で生活を送っていた可能性が高いことが判明した。 【写真】今、見られる日本の城 城跡は伊吹山系の東端、標高約400メートルの山頂にあり、南北約300メートル、東西約150メートルの規模を誇る。1558年に半兵衛の父・竹中重元が一帯を領有した際、父子で整備したとされ、町教育委員会が国史跡指定を目指して今年9月から3年計画で調査している。 見つかった礎石は4~5列にわたって約2メートル間隔で並び、一部には柱が立てられた痕跡もあった。柱の間隔や規模から櫓(やぐら)や蔵ではなく、少なくとも50平方メートル以上の建物があったとみられ、町教委の亀田剛広学芸員は「礎石を必要とする立派な御殿だった可能性が高い」と推測する。 また、一帯では天目茶わんや「華南三彩」と呼ばれる中国の茶器など約250点の遺物が出土。「かわらけ」と呼ばれる素焼き土器や囲碁の碁石も見つかり、亀田学芸員は「茶会や囲碁を楽しむなど、平時も日常生活を送っていたと考えられる。それが半兵衛の時期と特定できたのも大きな成果」と話した。 調査に携わった滋賀県立大の中井均名誉教授は「16世紀後半ごろの礎石建物跡が初めて確認され、規模からみて山上にあった御殿とみて間違いない。菩提山城は戦(いくさ)の際の砦と考えられてきたが、軍事施設と居住施設を併せ持つ半兵衛の城の実像に迫る重要な成果である」とコメントしている。 7日午後1時半から一般向けの現地説明会を予定している。申し込み不要だが、ふもとから徒歩で1時間かかる。【稲垣洋介】