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サンキュータツオ初の随筆集『これやこの』は人生の“救い”になり得る 「別れ」を綴る17篇を読んで

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リアルサウンド

 学者・漫才師のサンキュータツオというと、やはり個人的には彼の深い落語への知識と愛情、人の繋がりで生まれた「渋谷らくご」だ。 【画像】国語学者として出版した『国語辞典の遊び方』書影  数年前に取り壊された東急東横店本館に1980年代半ばまであった東横劇場という小屋では、定期的に落語や歌舞伎が掛かり(余談だが今年の1月物故された坪内祐三氏から、氏の小さい頃その劇場で人形劇として著名な人形劇団プークの公演を観た、とある酒席で以前伺ったことがある)、またそこからほど近いホテル街として名のある円山町は、かつて芸者衆がいる花街として栄えていた。  今では渋谷は気軽に古典芸能を体験するには難しい土地柄だが(能楽堂があるけれど)、その中で徒手空拳、落語を知らない人達に広く門戸を開けた常打ちの会を、映画館内のスペースでキュレーションする彼の努力と気苦労はどれくらいのものなのか、自分の店に公演チラシが貼られるたびに感じていた。  サンキュータツオは、国語学者として『国語辞典の遊び方』や『ヘンな論文』を出しているが、6月に刊行された本書『これやこの』は初めての随筆集だ。しかも全章「死」をテーマにした随筆だという。初めてというのは、文章家としても抜きん出ている彼としては本当に意外だった。読み進めるとなるほど、どの章の終わりにも必ず“死”がある。  第一章は「渋谷らくご」に登壇した柳家喜多八と立川左談次を登場させた表題作「これやこの」だが、のっけから読ませる。相次いで死を迎えるこの2人の「渋谷らくご」で演じた演目を時系列で解説しながら、人となりと落語家としての魅力を淡々と、しかし余すことなく語っている。  余計な飾りを排し緻密でありながらも、落語と彼らを愛するばかりに文章からじわりとにじむ著者の熱い感情が、彼らの来し方に鮮やかな彩りを与えている。  また、本書では語られる登場人物たちとの距離感も絶妙だ。それについて著者は次のように書いている。 特別な人もいつか必ず亡くなる。それを悲しまない術はない。心に開いた穴を、見て見ぬふりしながらたまに見て、適度な距離感で付き合っていく。やがてその穴が新たな世界を知る風穴となる。  この絶妙な距離感は故人だけではなく、そして文筆以外でも……例えば、プチ鹿島・マキタスポーツとの番組『東京ポッド許可局』(TBSラジオ)や、昨年まで放送されていた報道系長寿番組『荒川強啓デイキャッチ!』(TBSラジオ)へのゲスト出演などで振る舞う著者の姿にも、現れている。自身の性格もあるだろうが、表現者として対象者への尊敬の念、哀惜の想いがそうさせるのかもしれない。  本書には、ゴシップの愉しみというのもある(それはここ近年の亀和田武のエッセイにも通じる)。先の柳家喜多八と立川左談次といった芸で名を上げた人だけではなく、著者の肉親や学生時代の友人知人のちょっとしたエピソードが織り込まれ、その人を実際には知らない読者も思わずくすりと笑ってしまうのだ。  だが読み進めるうちに、この人達はこの世にもういないという何とも言えない想いに襲われる。そして、“死”は自分の中にも存在しているということに改めて気付かされる。  最後の章では、京都アニメーションの事件について綴られる。作品の大ファンだった著者は事件に深く傷つくが、ある出来事から、生と再び向き合うことができるようになる。それまでの一話一話を経て行き着いたこの章の重みと輝きは、著者の露わな感情と相まって素晴らしいの一言だ。  読み終えて、死と巡り会うことが「できた」と、そう思えた。悲しみや苦しみ、覚悟というような言葉だけではない本書だからこそ、これからを生きていく上で救いのような存在になったと思う。重々しいレクイエムではなく、軽やかにそれぞれの“死”を振り返り、これからも著者は伝えていくのだろう。もうこの世にいない、その愛すべき人達のことを。

山本亮

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