五輪どころか「運動」の概念も乏しい時代~幻のオリンピック前史(中編)
東京五輪・パラリンピックまで残すところ1000日を切った。さまざまなメディアがオリンピックに関する歴史や展望を書き連ねている。しかし日本でオリンピックが開かれるようになるまでにどのような試行錯誤が行われたのか、ほとんど知られていない。特筆すべきは、1940年の「幻の東京五輪」に先立って予行演習的なスポーツ大会が実施されていたことだ。歴史の闇に消えた「東京オリンピック前史」を3回連載で掘り起こしてみたい。 【写真】最初の“東京五輪”は遠足だった? ~幻のオリンピック前史(前編)
●運動会がなければ五輪は受け入れられなかった?
前編では、まだ近代オリンピックを知らない日本で、1964(昭和39)年の東京五輪のはるか前の明治時代、娯楽雑誌で企画されたイベントとして、オリンピックの“予行演習”が行われた史実を紹介した。 ところで当時の日本人は、西洋から入ってきた「運動」という概念をどう考えていたのだろうか?
夏目漱石が綴った「吾輩は猫である」(1905年発表)の第7話をみると、なんとなく事情が見えてくる。「吾輩は近頃運動を始めた」という書き出しで始まるそこには 「無事是貴人とか称えて、懐手をして座布団から腐れかかった尻を離さざるをもって旦那の名誉と脂下って暮したのは覚えているはずだ。運動をしろの、牛乳を飲めの冷水を浴びろの、海の中へ飛び込めの、夏になったら山の中へ籠って当分霞を食くらえのとくだらぬ注文を連発するようになったのは、西洋から神国へ伝染した輓近(ばんきん)の病気で、やはりペスト、肺病、神経衰弱の一族と心得ていいくらいだ」 と書かれている。“猫”が皮肉っているくらいだから、運動(スポーツ)というものが急速に普及したことがうかがえる。日本で遊技といえるものは数が少なく、鬼ごっこや隠れんぼ、相撲、撃剣といった程度しかなかった。しかし学校教育を通して体操や運動の急速な普及が図られたのだ。とは言え、いくら為政者たちが「運動は健康のために良い」と言っても、国民の間では意見が一致していなかった。 前編で紹介した娯楽雑誌主筆の押川春浪が企画した「天幕旅行大運動会」(1908年)から遡(さかのぼ)ること30年近く前の1878(明治11)年に、文部省直轄の西洋式体操教育機関「体操伝習所」が開設されている。体育教授法の研究と体育教員の養成が目的のこの機関の内部でさえ「体操は日本人に合っているか?」「本当に身体にいいのか?」と議論されていた。教育現場でも「小学校の低学年にも体操は必要なのか? 遊技で十分ではないか?」などということが侃々諤々(かんかんがくがく)討論されたようだ。 このように西洋からやってきた「運動」という文化は、日本で素直に受け入れられたわけではなかった。その一方、好意を持って受容されたものもあった。運動会である。