「逃げなかったら必ず振り下ろします」ダンプ松本が“腹をくくった瞬間”…極悪同盟マネージャーの証言「常に新しい凶器を探せの指令が…」
ド派手なメイクと奇抜なヘア。あまたの凶器を振り回し、悪行の限りを尽くしたヒール軍団。しかし、その内実は傍若無人な姿とは裏腹に規律と統率の取れた一枚岩の集団だった。ダンプ松本のマネージャーも務めたメンバーと全女の名物実況アナが当時を振り返った。 発売中のNumber1109号に掲載の[当事者たちが語る]影かほる/志生野温夫「素顔の極悪同盟 」より内容を一部抜粋してお届けします。 【貴重写真】“極悪レフェリー”阿部四郎の目の前で、ダンプ松本が長与千種に凶器を突き立てる瞬間!クラッシュ・ギャルズvs極悪同盟の壮絶写真、ドレス姿でリングに上がる唐田えりか&剛力彩芽。この記事の写真を見る。
ダンプ松本のよき理解者「かほちゃん」
「極悪同盟は家族だよね」 当時メンバーだった影かほるは、こう言った。影は、1985年8月28日に大阪城ホールで行われたダンプ松本対長与千種の敗者髪切りデスマッチで、ダンプの影武者としてリングデビュー。極悪同盟では後輩だったが、プロレスと芸能の超過密スケジュールに追われたダンプのマネージャーも兼務していた。本名は田口かほるで、ダンプから「かほちゃん」と呼ばれる縁の下の力持ち。ダンプのよき理解者であり、団体の功労者だった。 極悪同盟が全日本女子プロレス興業(以下、全女)のヒールユニットとして始動したのは'84年。松本香がダンプ松本に、'80年デビューの同期であるマスクド・ユウ(本庄ゆかり)がクレーン・ユウに改名して、東京都立川市の興行主だった阿部四郎が悪役レフェリーとして加わって、スタートした。翌'85年4月26日に島根・鹿島町立体育館で行われた極悪対決で、ユウが離脱。以降、家長のダンプは'88年2月25日に川崎市体育館で行われた引退試合まで、“未成年の娘たち”にとっての父となり、母となった。 長女は、17歳で髪の左半分をそり落とした中野恵子改め、ブル中野。次女は、プロ2年目で悪の道に進んだ斉藤真知子改め、コンドル斉藤。その下には'85年デビューの岩本久美子、石黒泰子、影かほる、仲前芽久美、坂本あけみなどが相次いでファミリー入り。'86年にデビューした宍戸江利花こと後のアジャコングも、極悪同盟のもとでヒールのイロハを学んだ。
【関連記事】
- 【あわせて読みたい】「おめぇには関係ねぇんじゃねぇ?」“極悪女王”ダンプ松本がいま明かすヒールへの転身秘話「文句がスゴかったよ…妬みが半端ないよね」
- 【こちらも】「全女の保証人になって2000万被った」「家が2軒なくなった(苦笑)」ダンプ松本を贔屓した“極悪レフェリー”阿部四郎が生前に語っていた「おカネの話」
- 【貴重写真】“極悪レフェリー”阿部四郎の目の前で、ダンプ松本が長与千種に凶器を突き立てる瞬間!クラッシュ・ギャルズvs極悪同盟の壮絶写真、ドレス姿でリングに上がる唐田えりか&剛力彩芽。この記事の写真を見る。
- 【話題】「下着をハサミで切って、真っ裸にさせられ…」女子レスラー初の“オールヌード写真集”も、井上貴子のプロ意識「私にとっては“作品”です」
- 【必読】「胸元から乳首が見える写真を狙われ…」キューティー鈴木52歳が語る、アイドルレスラー時代の“性的画像被害”と過酷な生活「月給は8万円」