“フェラーリ”を語れることの重要性とは? 新型ローマの官能さ
“フェラーリ”を語れることの重要性
マーケティング部責任者のインタビューで「GTのキャラクターの鍵としてロングツーリングに相応しいサウンドは重要な開発テーマのひとつだった」と、教えられたが、彼の言わんとすることもこのときわかったような気がする。 通常走行では“バリトンのコーラス”みたいな音を奏でる。心地よいBGM。3000rpmを超えたあたりですらサウンドを官能的と感じなかったのは、冗談をいっぱい言い合い、いやというほど笑い、景色に感心したり葡萄畑の前で自撮りを楽しんだりしたせいだろうか。これぞ、「嗚呼、グランデツーリング」。 ルイージはデュアルクラッチタイプの8ATのMTモードをセレクトしたが、操作の動きがとても小さく、手がバトルに触れているようには見えない。なによりドライビング上手の常、手足の動きがしなやかで動作が小さい。 一方、DCTそれ自体が自動で行うシフトアップも、駆り手の意思を読んでいるかのごとくスムーズで穏やかだ。しばしば横から、今、何速に入っているのだろうかとスクリーン表示を覗き見た。 彼はEV(電気自動車)にあまり興味がないそうで内燃機関派、でもハイブリッドの加速感は好きという。同僚にもおなじことを言う人が多いそうだ。フェラーリでは599フィオラーノを最後に、MTをオプションから外したが、顧客からのリクエストがないことにくわえ、現在のDCTは純粋マニュアルの楽しみを超えるものと捉えているという。 「ただし、体が操作を忘れないように休みの日によくマニュアルのクルマに乗っているよ」 マネッティーノはスポーツに合わせてある。ローマを楽しみ、そのキャラクターを味わうには、このポジションが適していると思うから。ペダル操作は右足のみ。サーキットでは両足で操作するのがフェラーリ・テストドライバー流儀という。 流儀で言えば、もうひとつ印象的だったのは、彼が“言葉を持っていること”。実は“バリトンのコーラス“という表現も彼のクチから発せられたものだった。これまで多くの自動車製作者に出会ったが、モデラーとテストドライバーは話すことが苦手な人々が多かった。前者は手と目がコトバとなり、後者はずばり寡黙。 でも彼は違う。 「テストドライバーは技術のセオリーと数値を超えたところにある乗り手の受けた感覚を、エンジニアに自分の言葉で説明することが求められる。ボキャブラリーを豊富にすること、これもフェラーリの流儀だと思う。だからこそ、フェラーリは経験のあるテストドライバーの雇用を好まない。イチからフェラーリのなかで育つことを重要視する。他車と比較することより、“フェラーリ”を語れる人間を育てることを大切にしているんだと思う」 彼はテストドライバーであること、フェラーリで働くことをとても誇りに思っている。そりゃ、そうだろうなぁ。1番の誇りはなに?と尋ねた時の答えは、しかし意外なものだった。 「社員の子供が高校に進むと教科書代を払ってくれるんだよ」 イタリアは、授業料こそ無料だが、理科系と文化系に分かれる高校の教科書代は個人負担。値段の高さは有名だ。しかしフェラーリのテストドライバーが平均よりずっといいサラリーを貰っていることは想像にた易い。つまり彼は家計を助けてくれることを言っているのではない。 たとえばスーパーマーケットで使う買い物券ではなく、本代を負担してくれる会社で働くのを誇りに思っているのだ。 「ウチの会社は社員の子供が高等教育を受けることを奨励する。学ぶこと、ヒトして前進することを大切にしているんだ。それと健康。スポーツジム代も会社持ち」