無差別殺人と、想像力の欠如――貫井徳郎『悪の芽』インタビュー
■個人の話が「社会派」に ――『悪の芽』は、『乱反射』『愚行録』など貫井さんの代表作を彷彿とさせるシリアスなミステリです。格差社会、いじめ、家族、SNSなどの問題を描いた、私たち一人ひとりに向けた物語でもあると感じました。着想はどこから? 貫井:社会派テーマで、と編集者から依頼を受けて考えたんですが、何も思い浮かばなかったんです。「いま書きたいのは個人の物語。個人の話を書かせてください」と言って書いたのがこれなんです。 ――意外ですね。アニメの大きなイベントで入場待ちをしていた人たちが巻き込まれる無差別大量殺人が起こり、犯人の斎木が自殺。斎木と関わりのあった人たちを通して、現代社会の負の側面が明らかになっていきます。 貫井:半分以上書いてから「あれ? これ社会派じゃない?」と気づいたくらいで、自分では意図していなかったんですよ。 僕としては、大事件の犯人と小学校で同じクラスだった安達という主人公が、かつて自分が斎木にしたことが事件につながったのではないかと苦悩する、安達個人の話のつもりで書いたんです。 ――安達は四十代前半のエリート銀行員。これまで順風満帆な人生を送って来て、妻と子供にも恵まれています。ところが斎木の過去が明らかになるにつれて、自分との接点に気づく。この展開にリアリティがありました。 貫井:世の中の大多数が犯罪とは関係なく生きていますよね。でも実はそう思い込んでいるだけで小さい接点があるかもしれない。その小さい接点が、傍目からは小さく見えても、本人にとっては大きな接点だということがありうるんじゃないかと。 主人公に一人では背負いきれないくらい重いものを持たせて、それを物語の原動力にしたいと思ったんです。 ――一方で、真壁という元同級生が登場します。真壁も同じことに関わっていたんですが、安達とは捉え方が違います。 貫井:たぶん、真壁のような反応をする人のほうが多いと思うんですよ。最後まで書いて思ったのは、真壁は思考停止している。悪いのは犯人だ──それ以上考えようとはしない。安達との対比が書けたと思います。書いている時にはそこまで考えていなかったんですが。 ――冒頭で事件を動画撮影してネットにアップする亀谷という大学生が登場し、その後に彼の視点で描かれるパートもありますね。 貫井:冒頭部分を書いた時は、動画撮影をしていた彼が事件の後にどういうふうに出てくるのかは考えていなかったんです。 ――「小説 野性時代」の2019年12月号から1年間連載されていましたよね。先を考えずに連載していたんですか。 貫井:そうですね。実はいつもそうなんですよ。この先どうなるのかはわからないまま書いています。 『悪の芽』も安達以外の視点人物のエピソードを入れることだけは事前に決めていたんですが、書き始めた時点では、誰の視点が出てくるかは決めていませんでした。 3回目くらいまで書いた時に、KADOKAWAの編集者さんたちと会食をする機会があり、この先をまったく考えていないとは言いづらくて、その場のアドリブで適当に「この人とこの人の視点を入れます」と言ったんです。それで方針が決まって、その通りに書いたんですよ。 ――なんと! アドリブから生まれたとは。 貫井:でも、プロローグで出てきた亀谷が視点人物になると言っても、安達とからみようがないので、後でどうしようかなあと頭を悩ませましたけど。 ――亀谷が出てきたことで、SNS、オタク文化など、若い世代から見た社会が見えてきました。コスプレイヤーが登場したのには驚きましたけど。 貫井:池袋に行ったときにコスプレイベントをよく見かけていたんです。あのシーン、妙にリアルだと思いません? 見て書いたからです(笑)。 ――そうだったんですね(笑)。亀谷のパートで、この作品のキーワードである「想像力のなさ」という言葉が出てきます。 貫井:ああいう言葉が出てきたのは、僕自身が常日頃考えていることだから。自分が想像力がない、と常に考えているので。 ■正義と悪をはっきり色分けしたくない ――亀谷は事件の動画を拡散させたことで注目される快感を味わいます。SNSはいまや私たちの生活に欠かせないものになっていますが、貫井さんご自身は、公式サイトのブログは更新されていますが、SNSは休止されていますよね。 貫井:もともと発信欲がないんですよ。交流欲もないのでSNSに向いていないんです。宣伝のためにはじめたんですけど、宣伝効果もあまりないようなのでやってもしょうがないかなと。 ――では、SNSに熱心な人たちの世界はどう見えていますか。 貫井:どうしてみんなそんなに話がしたいの、という素朴な疑問はありますね。僕、この1年くらいのコロナ禍の生活でも、すごく楽しく暮らしているんですよ。誰とも喋らなくても平気で、楽しく生きている人間なので、SNSを必要としないんでしょうね。 ――SNS社会について、『悪の芽』をお書きになっていて感じたことは? 貫井:多くの人は、SNSで誰かを非難する気持ちと、「うーん」と躊躇する気持ち、その両方を持ち合わせているような気がするんです。自分がどっちに転ぶかわからない。そんなところがあるんじゃないでしょうか。 僕自身もそう。僕はもともと「これが正義、これが悪」とはっきり色分けしたような話は書きたくないんですよね。見方によって、立場によって、正義って違うんじゃないか? というスタンスをずっと長いこと貫いてきたので、『悪の芽』も自然とああいうテーマに振れていったんですよね。 ――いろんな社会派的な要素が入ってきたのも結果的にそうなったのであって、最初から意図していたわけではないと。 貫井:そうです。事前に考えていたテーマではなく、ごく自然にああいう感じになったんです。 糾弾すべきものがあって、糾弾する側が正義というのが多くの社会派ミステリだとすれば、僕の場合はそうではありません。社会派と言われたとしても、ちょっと違う書き方をしているのではないかなと思います。