吉田拓郎(上)ブーイングも「おれはフォークじゃなくていい」が見事に開花 ストレートな男の心情を歌う新しいジャンル
【昭和歌謡の職人たち 伝説のヒットメーカー列伝】 (3) 演歌か歌謡曲しかなかった日本の音楽シーンで1960年代後半から、フォークソングの先駆者である岡林信康や高石ともやらの歌がメッセージフォークとして歌われるようになる。 吉田拓郎は広島では最も人気のあったグループサウンズに参加していた。ビートルズのコピーに加え、自作自演の楽曲を手がけた。65年に上京し、渡辺プロダクションに売り込むが失敗に終わり、ひとりでフォークソングを目指すと決めた。 70年、エレックレコードから「イメージの詩/マークⅡ」でデビュー。71年の「第3回全日本フォークジャンボリー」で「人間なんて」を歌ったことで注目されるが、拓郎の歌は、自身が感じ取る自由な世界を歌詞にしているから、大衆迎合の商業主義だと従来のフォークファンからはブーイングが起きた。 それでも「おれはフォークじゃなくていい」と拓郎は主張した。1年でレコード会社を変わり、CBS・ソニーに移り、71年には「今日までそして明日から」発売。型にはめたフォークの世界より、自分の感性を歌にしていく生き方を貫いた。 学生運動の果てに内ゲバが起き、あさま山荘事件に至って若者が喪失感を覚えた72年に発売された「結婚しようよ」は40万枚を超えるスマッシュヒットになった。 ストレートな男の心情を歌う新しいジャンルのフォークが若者の心をとらえた。旧来の日本的な花鳥風月の世界から飛び出した文字数の多い歌詞を乗せた曲に胸が躍ったものだ。 三橋美智也ファンの私の父親が「こんなものは歌じゃない」と不愉快そうな顔をしていたのが忘れられない。拓郎の「おれはフォークじゃなくていい」が見事に花開いたのだ。 拓郎の長髪と甘いマスクと声質、つっぱり気味の話しぶりは多くの女性ファンにも支持された。意外性にしびれるのも若者の特性かもしれない。拓郎にならって若者は長髪になり、ギターを担ぎ街を闊歩(かっぽ)した。そんな拓郎に、多くの歌手が作品の依頼をしたのだ。 ■吉田拓郎(よしだ・たくろう) 1946年4月5日生まれ、78歳。広島県出身。70年、「イメージの詩/マークⅡ」でデビューした。
■篠木雅博(しのき・まさひろ) 株式会社「パイプライン」顧問、日本ゴスペル音楽協会顧問。1950年生まれ。東芝EMI(現ユニバーサルミュージック)で制作ディレクターとして布施明、五木ひろしらを手がけ、椎名林檎らのデビューを仕掛けた。2010年に徳間ジャパンコミュニケーションズ代表取締役社長に就任し、Perfumeらを輩出。17年に退職し現職。