「すべて俺のせいだ」子分の暗殺を指示→懲役13年→刑務所内で自殺未遂…「伝説のテキヤ」尾津喜之助が服役中に良心の呵責に負けた理由
〈「暴力団の親分と直談判して」新宿の“劇場乗っ取り計画”を阻止…過激な団体を結成した「伝説のテキヤ」尾津喜之助が“鬼熊”と呼ばれたワケ〉 から続く 【衝撃画像】イカツすぎる…戦後の東京に君臨した「伝説のテキヤ」尾津喜之助の“素顔写真”を見る 戦後新宿の闇市でいち早く頭角を現し、焦土の東京に君臨した“伝説のテキヤ”尾津喜之助。アウトローな人生を歩んでいた彼は、どのようにして「街の商工大臣」と称されるようになったのか? ここでは、ノンフィクション作家のフリート横田氏が、尾津喜之助の破天荒な生涯を綴った『 新宿をつくった男 戦後闇市の王・尾津喜之助と昭和裏面史 』(毎日新聞出版)より一部を抜粋・再構成して紹介する。(全4回の4回目/ 1回目 から読む) ◆◆◆
親分衆への対抗勢力結成を目論んでいた高山春吉
尾津個人としては商売がふたたび軌道にのり、街としては震災復興事業がひとまずの完了を見、帝都復興祭がとりおこなわれた昭和5年ごろ、事件が起こる。 関東尾津組組長である尾津喜之助の片腕として名を売っていた、高山春吉という子分がいた。小柄な男ながら子分のなかでも頭1つ抜けていて、胆力も腕力もあって、このころ台頭してきていた。 ただ、才走るあまり、独断専行の気質を持っている男だった。名馬はことごとく悍馬より生じるという。尾津は、俺ならいずれ御すことができると放任していたが、それはやせ我慢に過ぎなかった。 高山はやがて、「関東兄弟分連盟」なる組織を作る。各組を横断して、幹部級の子分たちの横のつながりを目指す親睦団体の形をとっていたが、あきらかに親分衆への対抗勢力の結成を目論んでいた。
尾津は高山に刺客を放つが…
尾津は、他の親分たちから目に余るものがあると忠告を受けはじめた。連盟はひそかに、都内各地の親分の庭場を侵し、各露店から、なにかの名目を付けて金銭をとってもいるらしい。それでも尾津はしばらく、沈黙をつづけた。 そんな折、高山の兄弟分にあたる井口という男が、高山の妻と密通、2人して駆け落ちしてしまった。腹を立てた高山は井口を追うのではなく、尾津のもとへ怒鳴り込んできたのだった。「子の不始末は親の不始末」というわけだ。どうこの落とし前をつけるのだと親分に凄む子分。下剋上の機運高まり、事ここに至ってはもう放置してはおれない――。 ある日、ついに尾津は刺客を放つ。 数人の男たちが高山宅に躍りこむや、気配を察知した高山は即座に2階へ駆けのぼり、暗闇でぎらぎらと白刃を振って追ってくる男たちを、階上からハシゴを突きだし突き出ししながら防ぐ。
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