「人間山脈」「インドの狂える虎」...外国人レスラーを際立てた言葉の力
名レスラーたちの「異名物語」後編 前編から読む>> アントニオ猪木の異名「燃える闘魂」を編み出した、新日本プロレス中継『ワールドプロレスリング』(テレビ朝日)の初代実況アナウンサー舟橋慶一氏。その舟橋氏によると、レスラーの異名は日本プロレス時代から「団体とテレビスタッフ、新聞記者が一緒になって考えていた」という。 【写真】前編:プロレスファンを魅了した数々の異名。「燃える闘魂」の名づけ親が語る誕生秘話 日本プロレスの全盛期は、「日本人対外国人」の対決が全盛だった時代。次々と来日する外国人レスラーのイメージを膨らませるためにも、「異名」は不可欠だった。 代表的な例は、ルー・テーズの「鉄人」、ザ・デストロイヤーの「白覆面の魔王」、カール・ゴッチの「神様」、フリッツ・フォン・エリックの「鉄の爪」、フレッド・ブラッシーの「銀髪鬼」、ミル・マスカラス「仮面貴族」、アブドーラ・ザ・ブッチャー「黒い呪術師」、ブルーノ・サンマルチノ「人間発電所」などだろうか。いくつもの異名が、リングネームとセットとなってプロレス史に刻まれている。 こうした異名の成り立ちはさまざまだが、報道するプロレス記者が密接に関わっていたことは間違いない。新日本プロレスの中継がスタートして間もなく、猪木の宿敵として現れたタイガー・ジェット・シンには「インドの狂える虎」、スタン・ハンセンには「不沈艦」という異名がついたが、舟橋氏は「それは『東京スポーツ』の桜井康雄さんがつけたと思います」と明かす。 桜井氏は、日本プロレス時代から『東京スポーツ』のプロレス担当記者として第一線で活躍。テレビ中継の解説も務めるなど、取材者としてだけでなく、団体へのアドバイザー的な顔も持っていた。団体と蜜な関係を築き、新聞とテレビという2つのメディアで得た知名度も生かして、異名を発案してはファンに広げていった。
もちろん桜井氏の類まれなる語彙力があってこそだが、1980年代に入るとさらなる才能が出現する。舟橋氏のあとに『ワールドプロレスリング』のメイン実況を担当した古舘伊知郎氏だ。 古舘氏は1977年にテレビ朝日に入社し、同年の夏にプロレス実況アナとしてデビューした。舟橋氏は、新人アナの古舘に「絶対に人のマネはするなよ。ただし、どこかでヒントを得たものは吸収して、独自に言葉を考えてどんどん使え」とアドバイスしたという。 すると古舘氏は、アンドレ・ザ・ジャイアントの「人間山脈」という異名を生み出す。さらに実況では「ひとり民族大移動」と、身長223cmのアンドレをズバリ表現するなど、キャッチーなフレーズを速射砲のようにお茶の間に届けた。ほかにも、「超人」という異名があったハルク・ホーガンの彫刻のような筋肉美を「現代に甦ったネプチューン」と表現。古舘氏は「異名」だけでなく、実況での「フレーズ」でもレスラーのイメージを膨らませた。 さらにマスコミは、選手の技も命名していた。前出の舟橋氏は、ハンセンの必殺技「ウエスタンラリアット」の名づけ親だという。 「ラリアットという技は、ハンセンが登場する前からロサンゼルス地区でよく使われていたんです。僕は、カウボーイスタイルで登場するハンセンが放つラリアットだから、カウボーイの西部劇をイメージして『ウエスタン』をその上につけたんですよ」 さらに日本人レスラーの技では、1978年1月に藤波辰巳(現:辰爾)がニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで初めて披露したスープレックスを、「ドラゴン・スープレックス」と呼んだ。 「あの時は試合前に、ニューヨークのカフェで藤波と団体のスタッフ、マスコミの何人かとお茶を飲んだんです。藤波に『何か新しい技をやるの?』と聞くと、『スープレックスを考えています』と答えたんですよ。