リオ五輪で失格→猛抗議して銅メダル獲得。日本を強豪に押し上げた男
日本チームは即座に抗議し、裁定は国際陸連の担当理事会にゆだねられた。結局、荒井を失格とした審判長の判断は取り消され、約3時間後に荒井の銅メダルが決定した。 日本陸上競技連盟(日本陸連)の今村文男・競歩部長はメダルが確定した後に、舞台裏を明かしてくれた。 「失格とされた時は『え、あれで?』という印象でした。他の国のコーチから『なんで荒井が失格なんだ?』と聞かれて説明すると、彼らは『カナダの選手が疲れてフラフラになっていたからじゃないか』と呆れていました」 走ることが好きで陸上を始めた荒井は、高校入学後に長距離から競歩に転向。なかなか芽が出ず、インターハイ(高校総体)にも出場できなかったが、競技を続けようと福井工業大学に進学した。しかし、ここでは陸上部の雰囲気が合わず退部。それでも、卒業後も競歩を続け、中学時代の鈴木雄介を指導していた内田隆幸コーチの助言を受けて50kmに取り組むと力をつけ始め、08年からナショナルチーム合宿に参加させてもらうようになった。 だが当初の荒井は、五輪を意識することもなく「日本選手権で入賞できればいい」という程度の考えだった。そうした意識が、合宿で谷井や森岡、鈴木などの日本のトップ選手と接しているうちに徐々に変わっていった。世界大会出場を目指すようになった荒井は、11年には世界選手権に初出場し、6位の森岡と9位の谷井に続く10位に入った。さらに、13年世界選手権では11位、14年は日本歴代3位の2時間40分34秒を出すと、15年には谷井を破って日本選手権で初優勝を果たした。
そして、「好きだから競技を続けたい」という素直な心で歩き続けた荒井がたどり着いた初めての五輪が、リオだった。紆余曲折あった競歩人生を象徴するような、ドタバタ劇の末に獲得した彼らしい銅メダルは、この大会の陸上競技日本チームの初メダルであり、日本競歩悲願の五輪初のメダルだった。 そんな快挙を達成したにもかかわらず、荒井は控え目な姿勢を崩さず、穏やかな笑みを浮かべた。 「五輪初メダルということで、小坂忠広さん(当時・日本陸連競歩副部長)や今村文男さんなど、先輩たちが作り上げてきたものをようやく形にすることができました。少しは貢献できたかなと思います。 失格になることなどいろいろ考えていたら、ダンフィー選手から『ごめんね』と謝ってくれたので、彼自身が抗議したわけではないとわかってうれしかったです。ハグした時には泣きそうになった。(ダンフィーが)謝ってくれたから、もうメダルはもらえなくていいかなと思ったほどです」 荒井は、リオ五輪後も立ち止まることはなかった。翌17年の世界選手権では、優勝したディニズには完敗したものの2位。日本競歩の実力を証明し、その後の日本の競歩王国への歩みをより強固なものにした。
折山淑美●文 text by Oriyama Toshimi