リオ五輪で失格→猛抗議して銅メダル獲得。日本を強豪に押し上げた男
PLAYBACK! オリンピック名勝負ーー蘇る記憶 第43回 スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典・オリンピック。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あの時の名シーン、名勝負を振り返ります。 【写真】リオデジャネイロ五輪の荒井広宙 ◆ ◆ ◆ 少しずつレベルを高めてきた日本の競歩。世界陸上は、1991年東京大会の50km部門で今村文男が7位に入って以来、数大会ごとに入賞者を出してきた。五輪では、2008年北京大会の50㎞で山崎勇喜が7位で初入賞。その後、五輪の表彰台にはなかなか手が届かないままだったが、16年のリオデジャネイロ五輪は、競歩初のメダル獲得の期待がかかる大会だった。 その前年、日本選手の活躍が光っていた。15年3月に鈴木雄介が全日本競歩能見大会兼アジア選手権の20㎞で1時間16分36秒の世界記録を樹立。日本男子50年ぶりの世界記録保持者としてトップに立った。 同年8月の世界選手権では、鈴木は恥骨の炎症の影響で20kmを途中棄権したが、50㎞では谷井孝行が3位に入り、荒井広宙(ひろおき)は4位。日本競歩史上初のメダル獲得とダブル入賞を果たしていた。 そして、16年8月のリオ五輪当日。午前8時、気温22度ながら強い日が差す中、スタートした50㎞は世界記録保持者のヨアン・ディニズ(フランス)が1周目から飛び出した。その後も1周(2㎞)8分50秒を切るハイペースでどんどん差を広げていった。
しかし、序盤でリードしても途中で失速することがあるディニズ。前年の世界選手権優勝のマテイ・トート(スロバキア)や、2位だったジャレド・タレント(オーストラリア)らはディニズを追わず、レースが落ち着いた6km過ぎから9人で追走集団を形成した。 その中で日本勢の主役になったのは、世界選手権メダリストの谷井ではなく、荒井だった。 その後、森岡紘一朗が早々に後ろの集団に下がり、谷井も21km付近でペースを落としてしまう。結局、追走集団に残ったのは荒井だけになった。 世界選手権後、ケガなく充実した練習ができていたという荒井は、タレントやエバン・ダンフィー(カナダ)のゆさぶりにも過剰に反応することなく、状況に応じた冷静な歩きをした。すると、32km過ぎからディニズが失速。40㎞手前で5人のトップ集団を形成した。 その直後、タレントが勝負をかけるとトートが追い、荒井もトートについてタレントを追う。44㎞では荒井とトートのふたりが抜け出しタレントを追う形になった。