月収600万円でも手元にはほとんど残らない…NHK大河の舞台「日本三大遊廓・吉原」で働く花魁の"懐事情"
2025年NHK大河ドラマは、主人公・蔦屋重三郎が生まれ育った吉原が舞台になる。歴史作家の河合敦さんは「高級遊女である花魁の月収は米換算でおよそ600万円程度だった。しかし、衣裳や髪飾り、所有する座敷の家具や布団などはすべて自前だったため、手元に金はほとんど残らなかった」という――。 【画像】明暦の大火の際、たんすを荷台に乗せて迫り来る炎から逃れようとする江戸の人々 ※本稿は、河合敦『蔦屋重三郎と吉原 蔦重と不屈の男たち、そして吉原遊廓の真実』(朝日新聞出版)の一部を再編集したものです。 ■江戸時代の男性たちのパラダイス 江戸幕府が公認していた遊廓の代表は、江戸の吉原、京都の島原、大坂の新地である。これらを俗に三大遊廓と呼んだ。 遊廓の周囲は、堀や塀でしっかり囲まれていた。つまり、お城の廓(くるわ)(曲輪)と同じだから遊廓というのだ。ただ、遊女が集まっている場所なので、遊廓という名称が付いたらしい。別名を色里、くるわ、遊里などともいい、男たちにとっては日常では味わうことのできない最高の快楽が堪能できる、まさにパラダイスそのものだった。 しかも一歩、遊廓内へ足を踏み入れると、江戸時代の厳しい身分の上下関係が消え失せたのである。色里では、大名だろうと商人だろうと関係ない。どれだけ気前よく金銭をばらまくか、通や粋といわれるように、その言動や振る舞いがいかに洗練されているかが客の価値すべてを決めたという。非常に特殊な世界だったわけだ。 ■遊廓開設にあたって幕府が求めた三条件 戦国時代末期、京都や大坂などには、集まる男たちをあてこんで遊女屋が林立し、勝手に客を取って遊ばせるようになった。風紀が乱れるということで、豊臣政権は遊女屋を一カ所に集めたが、その方針を江戸幕府も踏襲したのである。 天正18年(1590)、小田原北条氏を倒した豊臣秀吉は、その旧領を徳川家康に与え、江戸を拠点にしろと命じた。秀吉の死後、関ヶ原合戦で覇権を握った家康は、慶長8年(1603)、朝廷から征夷大将軍に任じられて江戸に幕府を開いた。 家康は江戸城と城下を天下普請(諸大名に命じる土木工事)によって大改修をはじめたので、各地から労働者たちが江戸に集まりはじめた。そんな男たちを当てにして、慶長17年(1612)(異説あり)、日本橋の葺屋(ふきや)町に初めて遊廓が誕生したといわれる。それが吉原である。 遊廓の設置を申請したのは、遊女屋の代表・庄司甚右衛門であった。幕府は、甚右衛門に遊廓の開設を認める代わりに「客の逗留は一昼夜に限る。人身売買の不法行為を防止する。犯罪者の逮捕に協力する」という三条件をつけたといわれる。