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本能寺の変後に明智光秀に味方した名門・若狭武田家と後瀬山城【麒麟がくる 満喫リポート】

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サライ.jp

『麒麟がくる』で描かれる時代は、全国的に戦国下剋上の時代だった。名門若狭武田氏が本拠とした後瀬山城も例外ではなかった。風雲急を告げる情勢の中で若狭武田家はどのような戦略をとったのか。福井県小浜市教育委員会の西島伸彦氏がリポートする。

* * * 文/西島伸彦(福井県小浜市教育委員会学芸員) 若狭守護職は初代信栄(のぶひで)以降、信賢(のぶかた)、国信(くにのぶ)、元信(もとのぶ)、元光(もとみつ)、信豊(のぶとよ)、義統(よしむね)、元明(もとあき)と続き(呼び方・家督相続者に諸説あり)、約130年にわたり若狭を統治しました。 若狭武田氏歴代でも信賢は、応仁・文明の乱に際して東軍(細川勝元(かつもと)側)の副将を勤めるなど活躍し、国信も応仁・文明の乱で将として活躍しました。元信は朝廷や幕府と密接に繋がり従三位まで昇進しました。この頃が若狭武田氏の絶頂期であったと考えられます。 元光・信豊・義統・元明の治世では、国内外での戦乱に対処する間に次第に若狭武田氏の勢力は衰え、永禄11年(1568)朝倉義景(よしかげ)の軍勢が若狭へ侵攻した際後瀬山城を攻撃し、元明を越前へ連れ去りました。 この頃にはすでに織田信長の勢力が若狭に及んでおり、国内の武田家の家臣や幕府奉公衆の中には意を通じた者も多く、元亀元年(1570)の越前攻略には若狭衆として先陣を勤めていることがわかっています。 若狭衆は、この年朝倉攻めのため若狭へ入る織田勢を熊川まで迎えに出ており、明智光秀は織田信長が熊川に到着して越前に向かう前に熊川を訪れたとされています。 年不詳の信長奉行人連署奉書では、元明に結集して忠節を尽くすよう武田旧臣に求めており、羽柴秀吉・丹羽(にわ)長秀(ながひで)・中川重(しげ)政(まさ)・明智光秀の署名が見られます。天正元年(1573)には丹羽長秀が若狭を領することとなり、国人衆の多くは長秀に従っています。

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