世界注目の哲学者「AIの内部は回路と電流だけ」…全知全能AIは「知能がなく思考もしていない」と断言する理由
■誤った信念を持つから人間は人間でいられる 少し前に、哲学の専門書を出しました(『Sense, Nonsense, and Subjectivity(仮訳:意識、無意識、主観性)』)。既成概念に根本から挑む内容だったので、すぐさま騒がしくなるだろうと身構えていたのですが、なぜか哲学界の仲間たちは皆とても静かでした。あまりの沈黙に驚いたくらいです。ちょうど先週、同僚に会ったとき、「本のこと聞いている?」と尋ねたら、こう言われました。 「皆、読んだよ。でも、誰も何も言いたがらない。君がすべてを破壊してしまったからだ」 彼らはショックを受けたのです。多くの哲学者は、昔から伝わるすぐれた考えを「聖杯」のようにして守りたがります。誰も触れることができない聖杯をそこに鎮座させ、遠くから恭(うやうや)しく拝むだけの状態にしておきたいのです。でも、私は聖杯に近づくことを厭いといません。手に取れば、壊れていたり、ひび割れているかもしれません。それならば、より良いものを作ればいいのです。 その専門書を書いたのも、既成概念に新たな解釈を見つけたからです。私は、新しい概念や革新的な論理を常に求めています。新しいものでない限り、私が哲学で何かを言うことはありません。 専門書で私が提唱した新しい概念は「誰かであるとは何か?」についてです。私たちは個々で異なる身体を持っていますが、それだけでは不十分なのです。他者とは違う、特定の誰かとして存在するとはどういうことなのか――この問いに対する哲学の通説はこうです。「知識を持ち、理性的な存在であること」。ところが私が出した答えは全く違って、「誤った信念を持っていること」です。 伝統的な哲学では、人間が持つ「知識」は、有意で正しい情報と解釈されてきました。けれども、正しいだけではダメなのです。私たちの特徴は「誤り」にあるのです。 例えば、今、あなたと私は日本にいます。あなたはそう信じ、私も同じように信じている。あなたがそう信じていることを、私はあなたに聞かなくても知っています。このような、共通認識というべき「正しさ」だけでは、あなたが他と違うあなたであること、つまりあなたの個性にはなりません。 私が着目したのは、人間は誰でも、あなたでも私でも間違いを犯すという点です。この世の誰も、完全な知識など持っていません。世界のすべてを把握することなど誰にもできないからです。だからこそ、人は、個々に、誤った信念を持ってしまうものです。そうした「間違い」こそが、私とあなたを区別するものです。 つまるところ、「誰かである」とは、個々の人間の「誤り」によって定義され、人間とは「誤り」の集合体である――これが私の見解です。 ■AIは知的に感じるが「思考」はしていない そもそも人の「思考」とは何なのでしょうか。思考は、意識のなかで処理されるもので、痛みすらも思考となりえます。痛みを感じるとき、それは本人だけの現実ですから、「誤り」はありません。ただし、もし自分の外側の「何か」について思考するならば、その思考は正誤どちらかになります。例えば「安倍晋三は日本の首相だ」と考えるのならば、それは誤りです。すでに亡くなっていますから。「安倍晋三が首相だ」という思考は、彼が生きているという思考の真実性に依拠します。 このように、すべての思考には、それを支える論理システムがあるのです。思考は、論理システムのなかにのみ存在しています。哲学者として、私が思考を評価するときは、その思考だけにフォーカスするのではなく、背後の論理システムを見ようとします。 今やAI全盛の時代ですが、AIは思考することができるのでしょうか。AIはあくまで人間の思考回路になぞらえて設計された機械であり、能動的、主体的な思考はできません。ですから結論は、「AIは思考できない」です。 確かにAIは知的に感じられます。アルファゼロとチェスをすれば、人が勝つ見込みはありません。グーグルマップと東京の飲食店を探す競争をしても、勝つことはできません。ですがこれらは、AIが特定の問題を解決する効率が、人間よりも高いだけのことです。人間には内面があり、主体的思考があります。AIの内部に人の思考は存在していません。そこにあるのは回路と電流だけです。 AIが思考できないもう一つの理由は、AIが誤ることができないことです。AIは、機能しているか、または機能不全に陥るかのどちらかでしかありません。 メディアを例に考えてみましょう。もしもすべての新聞をAIで置き換えたらどうなるでしょう。常にAIが資料を読み、質問し、報道する。そうすればすべての新聞が、実質、一つの大きな均一化された新聞になります。 これが、なぜ悪いのか? 新聞やメディアにはそれぞれ個性があり、主観があります。だからこそ、時々「誤り」を犯します。そうです、メディアの本質は、時々間違うということにあるのです。だからこそ良いのです。 AIの場合、システムがうまく機能すれば全知全能になりますが、それ故、間違いを犯すことができません。ChatGPTが正しくない情報を提供するとき、それは事実を創作しているのです。現実との接点がないChatGPTは、間違えているわけではないのです。これが人間とAIの決定的な違いです。AIに知能はなく、人間の思考の模倣(もほう)モデルにすぎないのです。 AIによってすべてが自動化されることは、人間の進歩の停止を意味します。チェスはアルファゼロで終わり、囲碁はアルファ碁で終わりました。相手の動きを読む推理力、先を読む思考力、大局観にもとづいた判断力――こうした力を鍛えるチェスや囲碁は、AIの登場で魅力を失いました。AIに比べると、私たちはそれほど上手ではないことがわかってしまったからです。 私が見るAIが発展した未来では、人類は “現在”という永久的に退屈な一点に凍結されています。その世界では、人間はあてもなくブラブラする存在に成り果てるでしょう。私たちが「凍結」され、一点にとどまるというのは、非人間的な状態であるだけでなく、人類にとって真の脅威です。AIは人生の意義を吸い取ってしまう存在なのです。