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“東京”はどのように歌われてきたのか 現在のJ-POPに至る“ネガな東京”はこのとき誕生した

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音楽ナタリー

都知事選の投開票日を直前に控えた東京。日本の首都として政治・経済の中心を担い、多様な文化を発信する一大都市でもあります。 【動画】なぎらけんいち「東京節」(メディアギャラリー他9件) 日本の大衆音楽の歴史を紐解くと、過去から現在に至るまで、実に多くの東京について歌う楽曲があることがわかります。“東京”“TOKYO”などをタイトルに冠した曲だけでも確認できた限りで1500曲以上。“銀座”“六本木”“麻布”など東京の中の地名や、タイトルにはなくても歌詞に歌われている曲まで含めるとさらに膨大な数に上ります。 それらの楽曲の中で歌われる“東京”像は千差万別。曲によっては夢のような街であり、別の曲では非情な冷たい街であり、複雑な愛憎入り乱れる感情を持つ歌詞もあったり。一方、そのような感情を伴わず、都会的なイメージを東京というフレーズに託しているものや、自分の東京での生活をただまっすぐに歌ったものなど、実にさまざまです。東京は過去から現在に至るまで、どのように捉えられ、歌われてきたのでしょうか。それら1500曲の歌詞を調べてみることで、その移り変わりを確認していきたいと思います。 前編では、J-POP以前まで、どのように“東京”は歌われているのかを追い、時代につれて歌詞内の東京のイメージがいかに多様化していったかを見ていきます。 文 / O.D.A.(WASTE OF POPS 80s-90s) ヘッダ画像 / 笠置シヅ子「東京ブギウギ / 買い物ブギ」ジャケット ■ 大正時代:最古の“東京” 確認できたもので最初に“東京”が付く楽曲は1918年(大正7年)に発表された「東京節」です。とはいってもそれは正式なタイトルではありません。正式なタイトルは「パイノパイノパイ」。アメリカの「ジョージア行進曲」を元曲に作られた俗謡です。まだラジオもテレビも放送開始前、映画も無声、レコードは塩化ビニール製のレコード以前のSP盤ですらまだ普及の途上にあった時代、このような楽曲は寄席や舞台で披露され、あとは民衆によって歌われることで流行曲になっていきます。「パイノパイノパイ」は、東京の街の風景や世相を織り込んだ歌詞や、意味不明ながらもキャッチーなサビで大流行し、多くの人に好んで歌われることになります。 「パイノパイノパイ」(作詞:添田さつき) “東京の中枢は丸の内 日比谷公園両議院 いきなかまえの帝劇に いかめし館は警視庁 諸官省ズラリ馬場先門 海上ビルディング東京駅 ポッポと出る汽車どこへゆく ラメチャンタラギッチョンチョンデパイノパイノパイ パリコトパナナデフライフライフライ” その歌詞で歌われていた東京の風景や世相が、時を経て改詞されたり、その流行が地方まで広まるにつれてその地方ごとに替え歌が作られた結果、元歌が「東京節」と呼ばれるようになったと思われます。この曲はその後、榎本健一などの当時の喜劇役者によって録音されSP盤としてリリース(榎本健一のリリース時のタイトルは「東京節(パイのパイ節)」)され、戦後には森山加代子、なぎら健壱、ザ・ドリフターズなどもレコード化。平成以降も、ソウル・フラワー・モノノケ・サミットやあがた森魚によって「東京節」のタイトルで音源がリリースされるなど、現在まで長く歌い継がれるスタンダード楽曲となっています。 ■ 昭和(1920~40年代):音楽ジャンル+“東京”の歌 1920年代後半、それまでは輸入が主だった蓄音機 / レコードの国産と普及が進むようになりました。ハードの普及によってソフトのニーズが高まり、国内でも盛んに楽曲の制作が行われ、1925年にラジオ放送が開始されたことも相まって、いわゆる流行歌的なレコードが次々にリリースされるようになります。その初期から“東京”が題された楽曲はあったのですが、その多くは海外を中心とした音楽ジャンル名の頭に東京を付けるというスタイルのタイトルでした。 1929年 佐藤千夜子「東京行進曲」 1930年 二村定一「東京セレナーデ」 1939年 淡谷のり子「東京ブルース」 日本最初のレコード歌手と呼ばれた二村定一や佐藤千夜子、戦前から活躍したブルースの女王・淡谷のり子ら、日本の大衆音楽界のパイオニアと言える歌手がそのような楽曲を歌いました。しかしさらに具体的に言えば、「東京行進曲」「東京ブルース」、そして今も応援歌として親しまれている「東京音頭」の作詞者は、詩人でもあった西條八十(現在の東京都新宿区出身)でした。彼の歌詞とそのタイトル付けのセンスが、大衆歌謡の楽曲タイトルにおける“東京”の発祥と言えるでしょう。 「東京ブルース」(作詞:西條八十) “ラッシュアワーのたそがれを 君といそいそエレベーター ああブラネタリュームの きれいな星空 二人で夢見る楽しい船路 仰く南極十字呈” 戦後になると戦時中には輸入されることのなかった海外の音楽を紹介すべく、さらにそのような楽曲が増えていきます。 1946年 藤山一郎 / 並木路子「東京ルンバ」 1947年 岡晴夫「東京シャンソン」 1948年 笠置シヅ子「東京ブギウギ」 1952年 生田恵子「東京バイヨン」 海外の音楽ジャンルを日本に紹介するにあたってそのタイトルに、“日本”ではなく“東京”と付けられたのは、新宿区出身の西條八十の意図によるものですが、“日本”にはまだ都市化していない地域、戦後には復興の遅れた地域も含まれるのに対し、首都としてほかの地域と比べて都市化され、新しい流行がいち早くもたらされた都市である“東京”の名を冠することで、「日本に輸入した」という意味付けと共に、モダンで華やかなイメージを付加する効果があったと思われます。 実際、先述の「東京ブルース」の歌詞は、当時の最新鋭の装置名のカタカナ語が並んだ、とてもブルースとは思えない明るい歌詞ですが、ほかに伝達手段があまり多くない時代、このような楽曲が東京で実際に歌われるだけでなく、ラジオに乗って地方まで届き、リスナーの憧れをかき立てることで、その楽曲が“流行歌”として成り立つという構造がありました。当時の最新鋭や流行が歌い込まれることで、これらの“東京”の楽曲は華やかで、特に戦後の歌にはあえて復興の前向きな気持ちを後押しする目的を持たされたものもあるでしょう。どこまでも東京が明るい時代でした。 1983年にリリースされたサザンオールスターズの「東京シャッフル」は、タイトル・歌詞・曲調含めてまさにこの時代の東京をタイトルにした楽曲群へのオマージュと言えます。 ■ 昭和(1950~60年代):ムード歌謡と“東京” 1950年代になるとSP盤から塩化ビニール製のレコードがメインとなり、レコードプレーヤーの普及も進みます。これによって大衆歌謡の売り上げやリリース数もさらに拡大していきます。その中でも一大ムーブメントとなったのが、50年代後半に誕生した“ムード歌謡”と呼ばれる音楽ジャンルでした。 50年代、洋楽ではハワイアンやジャズが流行していましたが、主に進駐軍相手に演奏をしていたミュージシャンが演奏するそれらのジャンルの音楽に、既存の歌謡曲のテイストを加えた結果生まれたのがムード歌謡だと言われています。それが50年代末頃から流行音楽として徐々に人気を得て、多くの歌手やグループが参入するようになります。 ムード歌謡が主に演奏される場所がキャバレーやナイトクラブのステージであったことから、その歌詞でも、酒場での風景や、それらが存在する繁華街、そしてその繁華街がある都市での恋愛模様が歌われることが多く、全国の多くの歌手・グループが競うように各地の繁華街や都市をタイトルにした楽曲を次々にリリース、全国にその街の名と共に広がっていきました。 1957年 フランク永井「有楽町で逢いましょう」 1961年 石原裕次郎と牧村旬子「銀座の恋の物語」 1966年 美川憲一「柳ケ瀬ブルース」 1968年 青江三奈「伊勢佐木町ブルース」 1969年 内山田洋とクール・ファイブ「長崎は今日も雨だった」 東京はそんな中でも国内一の繁華街を持つ街として、多数の曲の舞台となりました。「有楽町で逢いましょう」「銀座の恋の物語」「コモエスタ赤坂」など東京内のさらに一部の地域名を冠した楽曲も多く存在していますが、当然“東京”そのものを冠した楽曲も登場します。 1965年 和田弘とマヒナスターズ「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー」 1966年 黒沢明とロス・プリモス「ラブユー東京」 1968年 田辺靖雄「ララバイ東京」 「ラブユー東京」(作詞:上原尚) “七色の虹が消えてしまったの シャボン玉のようなあたしの涙 あなただけが 生き甲斐なの忘れられない ラブユー ラブユー 涙の東京” 失恋の歌ですが、東京という都市がネガティブに描かれているわけではなく、男側からの“女性にこんなこと言われたい”的な都合のいい理想をそのまま歌詞にしたもので、これもムード歌謡に多く見られる特徴です。 こうして東京の夜の街で、夜な夜な東京を舞台にした、さまざまな夜の恋の歌が歌われるようになりました。これまでのような華やかなイメージの楽曲だけではなく、夜の街を舞台にした男女の恋愛を描いた歌詞も流行歌として街に流れたのです。 85年のとんねるずの「雨の西麻布」は、タイトル・歌詞・曲調まですべてムード歌謡のパロディとなっています。また、ゴールデンボンバーは(おそらくあえて)タイトルや歌詞に特定の都市名を入れてはいませんが、多くの曲でムード歌謡の雰囲気を取り入れています。 ■ 昭和(1970年代):ネガな“東京”の誕生 しかし、そんな豊かで明るい時代は長くは続きませんでした。それまではネガはあっても“失恋”程度だった“東京”の歌詞に大きな変化が訪れます。 1970年代に入ると、社会的にも人口集中による通勤ラッシュや公害の発生、経済的にも高度成長の時代からドルショックやオイルショックなどによる停滞が始まり、単純に豊かで明るい時代とはいえない状況に向かっていきます。それに伴ってキャバレーやナイトクラブの大箱文化も勢いが止まり、繁華街自体にも徐々に元気がなくなっていき、さらにカラオケの誕生と普及も相まって、夜の街では大きなステージで披露される歌や演奏を“聴く”文化から、小規模なスナックで客自らが“歌う”文化への移行が始まります。楽曲の舞台、そしてその曲を披露する舞台が衰退することで、ムード歌謡というジャンルも衰退の方向へ向かいます。 また69年、その歌が“怨歌”とも呼ばれた藤圭子がデビューし、アルバムチャートで37週連続1位という爆発的な人気を得たことで、歌謡曲界全体にも暗い雰囲気の楽曲が受け入れられる素地ができあがっていきます。このような背景から東京は“都会の華やかさなどのポジのイメージ”とは逆の、“冷たい街というネガなイメージ”でも歌われる街になっていきます。 藤圭子自身、デビュー曲のタイトルは「新宿の女」であり、さらに70年にリリースした「圭子の夢は夜ひらく」のB面には「東京流れもの」、71年の「さいはての女」のB面には「東京花ものがたり」という楽曲を収録しています。これらの楽曲は特に歌詞に“新宿”や“東京”に対するネガなイメージはないものの、ほの暗い曲調と彼女独特の歌唱によって、ムード歌謡やそれ以前の流行曲とは一線を画すものとなっていました。初めて“ネガなイメージ”のタイトルが付けられてヒットした“東京”の楽曲は、71年のいしだあゆみの「砂漠のような東京で」。ただ、この曲の歌詞はタイトルと同じ「砂漠のような東京で」というフレーズ以外は、当時よくあった“尽くす女”を歌った歌詞でした。 “冷たい街というネガなイメージ”の東京を決定付けた楽曲は、やはり76年に大ヒットした内山田洋とクール・ファイブの「東京砂漠」と言えるでしょう。 内山田洋とクール・ファイブ「東京砂漠」(作詞:吉田旺) “空が哭いている 煤け汚されて ひとはやさしさを どこに棄ててきたの だけどわたしは 好きよこの都会(まち)が 肩を寄せあえる あなたあなたがいる あなたの傍で あゝ暮らせるならは つらくはないわ この東京砂漠 あなたがいれば あゝうつむかないで 歩いて行ける この東京砂漠” これ以降、“決して明るくはないイメージの東京”が歌詞に登場することが珍しくなくなっていきます。また、「(つらい街である)東京でも、あなたがいれば生きていける」という、現在のJ-POPに至ってよく用いられるモチーフもここで多くの人に認知された、ということになります。 「東京砂漠」というタイトルはやはり強烈で、その後も84年の黒沢年男・叶和貴子「東京砂漠のかたすみで」、2011年の水田かおり「東京砂漠に咲いた花」と、時折演歌のタイトルとしても使用され、また、歌詞としては銀杏BOYZが「銀杏BOYZと壊れたバイブレーターズ」名義でリリースしたサウンドトラック盤「SEX CITY ~セックスしたい~」に収録された「ピンクローター」内などでそのフレーズが使われています。 ■ 昭和(1970~80年代):多様化していく“東京” 1970年代は歌謡曲の歌詞が変化したとほぼ同時に、大衆音楽の作り手にも大きな変化がありました。グループサウンズやフォークのブーム以降、職業作家以外でも自ら歌詞を書き歌う人が大幅に増加し、そしてレコード業界の拡大に伴ってデビューする人も増えてきたという点です。さまざまな出自や境遇を持った人が自分の心情を背景にした歌詞を書き、歌い、それらの楽曲がリリースされるようになりました。 東京出身のミュージシャンは生まれ育った故郷として、上京して有名ミュージシャンを目指した人は地元に住んでいたときとは異なった環境を、地方で音楽活動をする人は外からの視点で、それぞれがその生活の中で思い思いの東京を歌うようになります。それらによって歌詞の中での東京像は圧倒的に多様化していきます。 1973年 小室等(東京都出身)「東京」 ⇒東京在住の立場で地方へ向かう友を見送る “君ならどこに行っても きっとうまくやれると そう信じているよ そして 東京 東京 僕は残るよ ここに” 1974年 マイ・ペース(秋田県出身、バンドの活動拠点は愛知県)「東京」 ⇒東京に住む恋人との遠距離恋愛を地方からの眼で歌う “あぁ 今すぐにでも戻りたいんだ 君の住む町 花の東京 東京へはもう何度も行きましたね 君の住む美し都 東京へはもう何度も行きましたね 君が咲く花の都” 1976年 細野晴臣(東京都出身)「東京Shyness Boy」 ⇒出身を示すだけの記号的な使い方 “顔を真っ赤に首まで染め抜き はにかむ 贈る言葉も吃りがちに はにかむ それはまさに 生粋の東京シャイネス・ボーイ” 1980年 沢田研二(京都府出身)「TOKIO」(作詞は群馬県出身の糸井重里) ⇒東京の“都市”イメージをフィクション的、SF的にまで拡大した歌詞 “霧にけむった不思議な街に あやしい胸騒ぎ やすらぎ知らない遊園地が スイッチひとつで まっ赤に燃え上がる TOKIO やさしい女が眠る街 TOKIO TOKIOが空を飛ぶ” 1980年頃までには、東京をポジに捉える歌詞、ネガに捉える歌詞、ネガポジ相容れる感情を描いた歌詞、どちらでもないフラットに“東京”という名前だけを用いた歌詞、そして東京そのものを描写する歌詞、東京で生活する自分や他人を描写する歌詞など、その作詞者によって心情も視点も異なった、まさに千差万別の東京像が描かれるようになりました。 そんな東京像は、さらに1990年代、J-POPと呼ばれる音楽が主流になってからさらに拡大していくことになります。 <後編につづく> ※記事初出時、本文に誤りがありました。お詫びして訂正します。

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