しんどかった「使命感」 阪神・淡路の遺児、解放された東北での出会い #これから私は
小島汀(おじま・みぎわ)さんという女性がいる。3歳で遭遇した阪神・淡路大震災で、父を亡くした。被災地の復興の歩みとともに、彼女は成長し、節目の折には報道機関の取材を受けた。災害に強い街の実現を願い、前向きに生きる「震災遺児」として取り上げられることが多かった。けれど、どこかで息苦しさを感じていた。そんな中、人生の転機となった東日本大震災が起きる。そして、10年。彼女は今、東北地方の被災地とともに生きようと願い、その一歩を踏み出している。彼女がその道を選んだ理由は何なのか。「1・17」から始まる彼女の「マイウェイ」をたどってみたい。(中島摩子) 原発事故で奪われた日常と生まれた分断 母子の記録
2月13日午後11時すぎ、福島県沖を震源とする最大震度6強の地震が起きた。 小島汀(29)=兵庫県芦屋市、敬称略=には、思い浮かぶ顔が何人もあった。無事でいてほしい。翌朝、祈る思いで連絡を取った。汀が「先生」と慕う、同県陸前高田市の村上洋子さん(63)もその一人だった。 村上さんからの返信は「棚の物も落ちなかったし、家が高台にある安心感があります」。そして「もうすぐ10年。心がザワザワします」。 2人が出会ったのは、東日本大震災から1年後のことだ。汀は、その時に先生から掛けられた言葉をずっと大事にしてきた。東北と強くつながり、東北の被災地に気持ちが向かうようになったきっかけは、あの言葉だったかもしれない。
■3歳で遺児になった
1995年1月17日午前5時46分。 当時3歳だった汀、4歳上の兄、両親が暮らしていた芦屋市津知町のアパートは全壊し、並んで寝ていた4人はその下敷きになった。 汀が外に出たのは、約3時間後。一番覚えているのは、血まみれになった母の顔だ。夕方に運び出された父謙(けん)さん(36)は、家具が頭に直撃していたらしく、帰らぬ人になった。
■「負けるな」星野監督の言葉糧に
汀が「お父さんがいない」ということを初めて意識したのは、芦屋市立精道小学校1年のときだ。忙しく働いていた母は授業参観に来られず、汀は思わず泣いてしまう。友だちが、家族や父のことを話しているときは、なんだか居づらくて、涙をこらえていた。 震災後、がれきの中から出てきたのは、縦じまの帽子。父は熱心な阪神タイガースファンだった。つばの裏に、フェルトペンで「猛虎命」と書いてあった。2002年、10歳になった汀は故星野仙一監督(当時)と対面がかなう。 甲子園球場に遺児17人が招待され、汀は「お父さんの帽子とバットで応援します」とあいさつした。星野監督は応えた。 「僕も生まれる前に父を亡くし、母と姉と頑張ってきた。とにかく負けるな。みんなも夢を持って、勇気を出して、前に進もう」 その言葉は、汀の生きる糧になった。