【対談】石井妙子氏×與那覇潤氏 事件史で振り返る平成 「虚」から「実」への転換を
石井 ネット上で知らない人から自尊心を傷つけられ、「どうせ、できるわけない」と焚きつけられた結果、「だったらやってやる」という形で犯行に及んでいる点で、西鉄事件も秋葉原事件も構図が似ています。ただ、その犯行動機は理解に苦しみます。私がネットに疎いこともあるかもしれませんが、あくまでも相手はネット上の人物で、会ったことも見たこともない人。そういう人たちへのアピールのために無差別殺人を行うなんて。彼らの中では、ネット社会のほうが大きくて、現実社会のほうが小さくなってしまっているのでしょうか。 與那覇 ネットでの「自分の評判」こそが一番切実というのは、そもそもネット自体が存在しなかった昭和にはあり得なかった感覚ですよね。 たとえば秋葉原事件を皮切りに、突如発生した重大犯罪を「テロ」と呼ぶか否かが論争を呼ぶことがあります。令和の「安倍晋三元首相銃撃事件」(22年)もそうでした。私はむしろ、平成以降はどんな事件でも何かしらのテロ性を持っているのではと感じています。「自分の評判がここまで低いのは、今の世の中そのものが狂っている。だから全否定してやる」といった、世界の滅亡を描く「セカイ系」のアニメのような情動で起こすテロですね。ネット上の世界こそが、現実の社会よりも生々しい実感を伴って感じられている。 石井 私たちからすると小さい世界なのに、彼らにとってみると、ネットの世界が全世界で、一番貴重で、一番大きい。それを別の世界、つまり、現実世界で全く無関係な人たちを狙って無差別殺人を行っているのです。 私が思うに、犯人たちは、社会をみんなが共有しているという感覚ではなくて、自分を中心にしている。ネットだと、自分が真ん中、自分があんこで、社会というのは周りについた皮という感覚なのかもしれません。
承認の行く先はネットそれは犯罪につながる
與那覇 よくキーワードになりますが、「承認欲求」の問題ですよね。現実の社会でなら、あるコミュニティーで周囲が自分を認めてくれなかった場合、離れて別の場所に行くという選択を人は思いつきます。引っ越しとか、転職とか。しかしなぜかネットの場合は、現時点で下される評価が即「全世界」のものだと見なされ、「正しい私を認めないなら、この世界は狂っている」と思い詰めがちです。移ってやりなおせばいいじゃん、とは思いにくい。 石井 リアルが減り、ネットが大きくなると、バランスを崩していくということですね。また、秋葉原事件の本質とはズレているのですが、当初、「格差社会で生まれた犯罪」という識者の解説に多くの人が納得していたということを考えると、犯罪をしていないけれども、社会に対するいら立ちを持っている人がそれだけたくさんいたということなのかもしれませんね。 ─犯人が白昼堂々犯行に及ぶケースも増えているのではないでしょうか。 與那覇 優れた現代社会論の多い速水健朗氏が、昭和と平成で「劇場型犯罪の意味が逆になった」と指摘しています。昭和の「グリコ・森永事件」(1984~85年)では、犯人は隠れたまま、マスコミを挑発する手紙を送って社会の狼狽ぶりを楽しみました。平成でも「神戸連続児童殺傷事件」(97年)はそちらに近かった。しかし、秋葉原事件以降の劇場型犯罪は「ここまで大事件を起こした、私のことを見て!」と、むしろ自分に注目を集めるためなら逮捕も辞さない形で、スペクタクルをつくろうとする。本人だけでは自己の承認を得られない時代の産物であり、令和の「迷惑系ユーチューバー」は、そのより矮小な模倣ですよね。 石井 「死刑になりたいから事件を起こす」という人も現れました。「京王線刺傷事件」(2021年)もそうで、自殺するだけでは自分の存在を世に知らしめることができないから、その前に社会に一矢報いてから死にたいというものでした。