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捕虜となった日本兵はわずか 米兵も泣き叫んだ硫黄島の激戦

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NIKKEI STYLE

 終戦を迎える1945年、その年の2月から3月にかけて、太平洋で日米の激しい戦いがあった。米軍の死傷者が日本軍を上回るほどの激戦、それが硫黄島の戦いだ。 【写真】多くの日米の兵士が犠牲になった硫黄島の戦い  東京都心部から南に約1200キロの硫黄島に米海兵隊が上陸したのは、今から75年前の1945年2月19日だった。当初、米軍は簡単な掃討作戦とみなしていたものの、戦闘は5週間に及び、3月26日にようやく終結した。  戦闘の激しさは、百戦錬磨の米海兵隊員の心も折るほどだった。  硫黄島の戦いに参加したビル・モンゴメリー氏は現在、95歳。最近では右耳がまったく聞こえず、左耳もあまり聞こえない。しかし、硫黄島と呼ばれる岩だらけの島で、20歳だった自分の鼓膜に響いた戦場の音は、今も忘れない。そして、そこに掲げられた米国旗を見たときの、この上ない喜びも。それは米軍の歴史に永遠に刻まれる出来事だった。 「私たちが上陸して5日目のことです。私が一人きりで離着陸場の端の斜面に寝転がっていると、船の警笛が聞こえました。壕内にいた仲間から歓声が上がりました」  モンゴメリー氏は、標高169メートルの摺鉢山(すりばちやま)の頂きに目をやった。そこは面積約24平方キロの硫黄島の、ほぼどこからでも見える場所だった。800メートルほど先の光景に、戦いで疲れた体の中から力が湧き上がった。「見ると、星条旗が翻っていたのです。何ということでしょう」。その声には今も驚きがこもる。  それはおそらく、太平洋戦争における最も象徴的な瞬間だっただろう。写真家ジョー・ローゼンタールが撮影した、摺鉢山の頂上に星条旗を掲げる6人の米海兵隊員の写真は、本国にいる多くの米国人を奮い立たせ、今でも世界各地にいる米海兵隊員の士気を高揚させる。 「それはもう、大変な喜びでした」とモンゴメリー氏は語る。「これですべて終わったと思いました。あまりに多くの同胞が亡くなっていました。ようやくやり遂げたのだ、と」  しかし、喜びもつかの間だった。  硫黄島ではその後1カ月以上も激しい戦闘が続いた。この火山島の前哨地点で戦った11万人の米陸・海・空軍兵士のうち、2万6000人が死傷した。  ビル・モンゴメリー氏は、なかでも37日間にわたる死闘を耐え抜いた、ごく少数の海兵隊員の一人である。氏がいた部隊の50人のうち、生き残ったのはたった5、6人だった。 「自分がどうして撃たれなかったのか、まったくわかりません。申し訳ない気持ちです。有難いことだとも思っています」  前かがみになり、テーブルを指先で叩きながら、そう話した。リタイアしてからは、米ジョージア州アトランタに近いこの家で暮らしている。結婚して70年になる妻のリー氏は、夫の震える手に触れようと手を伸ばしかけたが、代わりに優しく微笑んだ。ビル氏も微笑み返した。少し落ち着いたようだ。  硫黄島に上陸するのは、米太平洋艦隊が数日間砲撃した後であり、戦闘は3日から6日ほどで終わると考えられていた。ところが、2万3000人の頑強な日本兵は予想外の反撃を行い、複雑に張り巡らされた坑道から米海兵隊員を狙い撃ちした。  モンゴメリー氏にとって、それは恐ろしい1カ月だった。ある晩は、浅い溝に身を潜めて過ごした。すぐ後方の壕から射撃する味方に誤って撃たれないように、頭は上げられなかった。その夜、日本兵が壕に向かって投げたいくつかの手榴弾は目標まで届かず、モンゴメリー氏の周囲で爆発した。 「朝になって、後方にいた海兵隊員に驚かれました。てっきり死んだと思ったそうです」  霧のせいで命を落としかけたのは、一度ではなかった。ある日、うずくまっていたモンゴメリー氏を敵と間違えたP-51マスタング戦闘機のパイロットが、氏の上で爆弾を投下した。 「爆弾は私のいた壕のすぐ隣に落ちましたが爆発せず、私たちの目の前で跳ねて日本軍の陣地に飛んでいき、そこで爆発しました」。命は助かったが、氏は激怒した。「その戦闘機に向けて何発か撃ちましたよ」と白状する。 「それ以来、退役パイロットに会うたびに『硫黄島には行った?』と聞いていますが、まだそいつは見つかりません」。硫黄島での苦しい経験の中でも、このときは頭がおかしくなる一歩手前だったと言う。  実際に、限界を超えてしまった人もいた。「海兵隊員たちが地べたに座り、手で顔を覆って胸が張り裂けんばかりにむせび泣いていました。心が折れてしまったんです。私たちの多くが、麻痺したように、ショックに対して無感覚になっていきました」 「最後の方には、死んだ海兵隊員を拾って道の脇に置いておくように言われました。トラックで集めて墓地に運ぶためです。多くは1週間くらいそこに置かれたままでした。遺骸を動かすときには、たいがい腕や脚をつかんでいました。するとそれが抜けるんです」  この言葉に妻のリー氏は息をのんだ。「その話は初めて聞いたわ」と静かに言った。 「気持ちのよい光景ではなかったよ」と、妻の目をじっと見てモンゴメリー氏は言う。「実際、硫黄島で気持ちのよい光景を見たことなんて一度もない。帰りの船が到着したとき以外はね」

文 BILL NEWCOTT、訳 山内百合子、日経ナショナル ジオグラフィック社

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