「娘が運転を?」「事故後の容態は安定していた?」グレース・ケリー死の真相--なぜ疑惑はいまも消え去らないのか
1982年9月13日、グレース・ケリーとその娘ステファニー公女のクルマが転落事故を起こしました。 【写真集】ビーチでの自然体ショットも!気品あふれるグレース・ケリーの美しい瞬間まとめ その際、モナコ公国による公式声明は誤解や憶測を招くものであり(搬送された病院の執刀医は「ニューヨーク・タイムズ」紙で、そのことを非難しています)、そのため私たちはその自動車事故の全容と、グレース公妃の負傷の状況について混乱させられることになったわけです。 当時、情報が錯綜したことで巻き起こった疑心暗鬼が、いまもってグレース・ケリーの死について、「何か隠された真実があるのではないか?」という疑念を残し、尾を引いていると言っていいでしょう。ですが、秘密の情報など実際にはどこにも存在しません。それでは、実際に何が起こったのか? その全容をお伝えしましょう。
グレース公妃は娘を乗せた車を運転し、駅へと向かっていました
「シカゴ・トリビューン」紙に掲載された作家ジェフリー・ロビンソンによる『レーニエとグレース:私的肖像』からの抜粋に目を通すと、グレース公妃は17歳になる娘ステファニー公女の入学準備のため、パリ行きの列車搭乗券を2枚持っていました。 11年物の愛車のローバー3500の運転はお抱え運転手には任せず、グレース公妃自らハンドルを握っていました。パリでの新生活のための大きな荷物を運ばねばならず、2人乗るだけでクルマは一杯だったようです。 ステファニー公女の姉であるカロリーヌ公女は、ロビンソンに対して妹から伝え聞いた事故当時の状況を次のように話しています。 「“どうしよう、止まらない。ブレーキが効かない、とママは何度も繰り返したの”と、ステファニーは教えてくれました。ママは完全にパニック状態に陥っていたそうです。ステファニーは、ハンドブレーキを引いたそうです。これは事故の直後に聞かされた話になります。“ハンドブレーキを引いたのに、クルマは全く止まってくれなかったの。止めようとしたのだけど、どういうわけか…クルマは止まらなかった”と」。