マドンナ、マイケル、新幹線…「名古屋飛ばし」の元祖は江戸時代までさかのぼる?【企画・NAGOYA発】
◆古くから存在していた?
◇第7回「名古屋飛ばしの元祖は?」その1 大きなイベントやコンサートの開催、列車などが名古屋をスルーすることを「名古屋飛ばし」と呼ばれることがある。1992年3月に東海道新幹線で「のぞみ」がデビューした際に一部列車がJR名古屋駅を通過しないダイヤが組まれ、地元で社会問題化されたことが代表格だ。その「名古屋飛ばし」の元祖は江戸時代初期までさかのぼるとの説もある。江戸幕府の将軍家と尾張徳川家の確執にもつながる、ある逸話に迫る―。(鶴田真也) ◇ ◇ ◇ 「名古屋飛ばし」という言葉は一度は耳にした人もいるかもしれない。1987年にマドンナ、マイケル・ジャクソンが日本の各地でコンサートを開催したものの、名古屋公演は実施されなかった。92年に新幹線「のぞみ」の運行が開始されたが、下りの一番列車が名古屋駅などを通過することになり、この状態が97年まで続いた。 この「名古屋飛ばし」は最近の話ではなく、古くから存在していたという。その元祖とされるエピソードがある。かいつまんで言えば、江戸幕府の3代将軍・徳川家光が上洛(じょうらく)の帰りに御三家の尾張藩が居城にしている名古屋城を素通りにして江戸に帰ってしまったという。1634(寛永11)年のことだ。 これは徳川家康の十男で紀州(和歌山)藩主の徳川頼宣の言行を近臣が回顧した書物『大君言行録(南龍言行録)』などに記されている。 同書によると、こんな顛末(てんまつ)だ。家光が上洛の帰りに名古屋城で休息をしたいと告げ、尾張藩初代藩主の徳川義直は大喜びして、将軍を迎える御殿などの整備を「夜を日に継いで」急いだ。
◆家光の思いも寄らない事情
ところが家光は京を出立し、近江(滋賀県)の佐和山城まで来たところで、思いも寄らない事情ができたとして、名古屋城へ寄らずに江戸に戻ることを決めてしまった。数日を懸けた支度が水の泡となり、メンツをつぶされた義直は「天下の恥辱をかいた」と思い詰め、一緒に京に随行していた弟の頼宣に「尾張に籠城し、安否を極める(一戦を交える)」と打ち明けた。 これを聞いた頼宣は説得を試みようとしたが、義直が聞く耳を持たないだろうと判断し、「籠城の手段はよろしくない。さすれば、将軍様が尾張を通過するときに討って出ればいい。われらも伊勢から吉田(豊橋)に船で渡って加勢する。失敗すれば、枕を並べて討ち死にしよう」と逆にあおってみせた。 すると義直は冷静さを取り戻し、「自分が滅ぼされるのは仕方がないが、何の罪もない貴殿を巻き込んで両家が取りつぶされれば、権現様(家康)に示しがつかない」と謀反を思いとどまった。 義直は家康の九男で、宗家の家光にとっては叔父にあたる。しかも年齢は3歳違いで、2人は不仲だったと言われている。