「洗濯で夜は寝られず手が血だらけに」「先輩が寝るまでマッサージとうちわ」…大物OBたちが《日本一厳しい》亜細亜大野球部では「生真面目でも、いい加減でもダメ」と語る「深い理由」
必要なのは野球のうまさではない
阿波野 与田のマッサージは「気持ちいい」と評判になっていたよね。 与田 僕、手が大きいから重宝されました。「おい、出張、行ってこい」と別の部屋の先輩のマッサージに行かされたり。 阿波野 うまくなると他の先輩から呼ばれるんだよな。上級生にかわいがってもらう一因にはなるけど、キツいよな。 与田 でも、本当に指の力は強くなったと思います。ものすごい数をもみましたから(笑) 阿波野 僕は出張マッサージを回避するために上手にマッサージしないようにしていた(笑) やっぱり、どこかでうまくやらなきゃいけない。 ボール係って担当が2人くらいで毎日、1000球くらいタワシで磨くじゃない。でも一個、一個、やっていたら何時間もかかる。辞めちゃった同期はすごく真面目で、いつも夜中2時くらいまで磨いていて、それではもたないよね。要領のいいヤツは、ボールの入ったカゴを「バン!バン!」と上下に揺すって、ある程度、土を落として、カゴの上にあるボールの見えているところだけタワシをかけていた。見栄えをよくして、やり過ごしていた。 生真面目もダメだし、いい加減もダメ。担当の係は3ヵ月に1回くらいで代わるし、そのあたりをうまくできる人が後々、試合に出たり、就職した企業で活躍していたりしている。 与田 OB会とかで集まるたびに、みんないつも言うんですけど「我々の時代は上手な人間じゃなくて、丈夫な人間が生き延びられた。野球なんかどうでもいい。とにかく心と体、この2つが丈夫だったから」って。 阿波野 1年生のときは本当に野球がうまくなりたいというのは二の次だった。夜の個人練習も上級生になったらシャドーピッチングとかやったけど、下級生のときはそれどころじゃない。 与田 そうですね。 阿波野 その生活に慣れる、乗り越えることだけ考えていた。あの時代だから水は飲めないし、移動はとりあえず駆け足。なによりメニューのきつさだよね。ついていくだけで大変だったし、すべて全力でやったら故障する。 与田 そうですね。練習は厳しいというより苦しい。長くて、苦しい。投げる球数もそうでしたが、こんなにやるんだって。 阿波野 下級生の頃は投げる体力をつけるためにかなり投げたね。ただ、全力でやりすぎると肩とか肘が壊れそうだったから80%くらいの力で投げてバッターを打ち取る術を求めて、身につけていった。 与田 当時はリーグ戦の第一戦に先発して、翌日はリリーフ、さらに次の日に先発というのが普通でしたからね。 阿波野 でも、練習ではただ力をセーブして投げていたわけじゃない。矢野さんは威圧感もあるし、おっかなかった。その人に腕組みをされて見られている重圧。一球、一球、気持ちを入れて投げないといけないというのはあったからね。ピッチングのやり直しもよくさせられた。 与田 ありましたね。
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