なぜ秀吉は備中高松城を水攻めしたのか?
(城郭・戦国史研究家:西股 総生) ◉ 中国大返しに見る戦国武将の危機管理術(前編) (https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63911) 【写真】秀吉と毛利との戦いの舞台となった備中高松城。 ■ 豊臣秀吉と毛利輝元の攻防 (前回から)備中高松城攻め・本能寺の変・中国大返しについての事実関係を整理してみよう。まず、城攻めという戦闘形態は、双方の作戦や思惑やぶつかりあった結果であって、ある日突然起きるものではない。高松城の水攻めもそうである。 もともと、備前・備中の国境地帯において、織田方(秀吉&宇喜多軍)と毛利方との間で、さまざまな戦術的駆け引きが展開し、劣勢に回った毛利方が、結果として高松城に押し込まれてゆく戦況となったため、秀吉は高松城を囲んだのだ。 この事態は、毛利方としても放置できない。高松城を見殺しにすれば、備中の国衆たちが雪崩をうって織田方に転じてしまうからだ。そこで、毛利輝元は高松城の救援に向かう決意を固め、毛利軍の主力を率いて出陣してきた。 ここまで、備中戦線を優位に進めてきた秀吉ではあったが、毛利軍の主力が本気で押し出してくれば、さすがに勝ち目はない。そこで、信長にSOSを出した。この使者が安土に着いたのが5月15日。折から徳川家康が、武田討伐の御礼言上のため安土を訪れていた。 報告を受けた信長は、毛利軍の主力が出てきているのなら、一気に決戦に持ち込むチャンスと考え、備中戦線への出陣を即決した。このあたりの決断の速さは、長篠合戦の時とまったく同じである(2020年10月20~22日掲載の長篠合戦記事参照)。 そして、自分が現地に着くまで秀吉が戦線を持ちこたえられるよう、当座の手当として明智光秀を送り込むことにした。ゆえに、光秀は家康の接待役を解かれたのだ。
■ 「水攻め」は大ウソ? この状況を、現場にいる秀吉の立場で考えてみよう。光秀の援軍→信長の本隊→主力決戦という作戦構想が伝えられてきた以上、自分は光秀や信長の来援まで、何とかして前線を持ちこたえさせなくてはならない。世間一般で信じられている、秀吉が備中高松城を水没させようとした、という話がウソであることが、これでわかる。 なぜなら、高松城を水没などさせたら、信長が目論んだ主力決戦が不発になってしまうからだ。そんなことをしたら、切腹ものである。秀吉は、毛利軍主力が押し出してこないよう牽制しながら、高松城を生殺し状態で引っ張らなくてはならなかったのだ。 このとき最低限、必要な処置としては、まず城兵が夜襲や脱出などできないよう、完全に封じ込めておくこと。毛利軍本体と城との連絡や、兵糧の搬入をシャットアウトすることだ。つまり、城を完全封鎖するために周囲を水浸しにするのが水攻めの目的であって、水没させる必要などハナからないのである。 当然、見張りも厳重にしなければならない。こんなときに、前線に「見張りを厳にせよ」などと通達を出しているようでは、指揮官として失格だ。毛利方から自陣に対して、調略を仕掛けてくる可能性だって、考慮しなくてはならない戦況なのである。 部隊長クラスを集めて、見張りの人数やシフトなどの現状をいちいち確認した上で、何人で何交替させろ、パトロールの頻度を倍にしろなどと、具体的に指示を出すようでなくては話にならない。というより、そうした処置を常に抜かりなく取れたからこそ、秀吉も光秀も、織田家中で頭角をあらわすことができたのではなかったか。 そう考えれば、光秀の密使が見張りの網にかかったとしても、まったく不思議ではないのである。(つづく) ◉中国大返しに見る戦国武将の危機管理術(後編) ( https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63913)
西股 総生