逆境の物理五輪がくれた自信(震災10年・離れて今)
東日本大震災と東京電力福島第1原子力発電所の事故から10年。少年少女時代に被災し、現在は進学・就職などで地元を離れている若者たちは今、故郷にどんな思いを抱いているのか。連続インタビューの第3回は、宮城県塩竈市出身で震災の年の国際物理オリンピック(物理五輪)で金メダルを獲得した佐藤遼太郎(さとう・りょうたろう)さん(27)に聞いた。 佐藤さんは現在、NTTメディアインテリジェンス研究所(東京都武蔵野市)に在籍し、音響処理技術の開発などに携わっている。震災当時は仙台市にある秀光中等教育学校の5年生。同市を本拠地とする東北楽天ゴールデンイーグルスの大ファンでもある。 ――「故郷の1枚」にフルキャストスタジアム宮城(現在の楽天生命パーク宮城)での写真を選ばれました。どんな思い出がありますか。 「自分が塩竈市立第二小学校6年のとき、楽天イーグルスができました。とてもうれしかったので、それからずっと熱心に応援しています。写真は当時のものですが、球場も(改装で)本当にきれいになり、びっくりしました。僕は親に頼んで買ってもらったユニホームを着ていて、一緒にいるのは弟。秀光時代には、グラウンドで始球式前の国歌斉唱に参加したこともあるんです」 ――最も記憶に残っている試合は。 「3つあります。まず2005年、楽天にとって最初のホーム開幕戦。先頭打者の礒部公一選手がバックスクリーンにホームランを打って、試合も勝ちました。次は震災後、最初の試合。11年4月の終わりごろで、勝敗はすぐ思い出せないんですが、球場に入るとき、ちょっとだけ日常が戻ってきたと感じたのは覚えています。そして13年に日本一になった試合。このときは東京から新幹線で駆けつけました。今季のマー君(田中将大選手)復帰のニュースもうれしいですね」
■現実のものと考えられず
――11年7月の物理五輪をめざしていた3月11日に震災が発生し、仙台やご自宅のあった塩竈市は津波の被害も受けました。当時の状況を教えてください。 「学校で実力テストを受けていたら、それまでに経験したどの地震より明らかにデカい揺れが起きたんです。みんな机の下にもぐったんですけど、机ごと体がもっていかれるみたいな感じでした。よく耳にする『その場にとどまるのが難しい揺れ』というのは、こういうものだったんだな、と」 「テストは中止。学校は海から離れていたんですけど、津波の危険があるからと、3階建ての校舎の最上階に避難しました。余震も続いて、それがめっちゃデカいんですけど、停電していて外の被害状況もわかりません。命の危険とか恐怖というより、あんまり現実のものとして考えていなかった感じです。日没後の真っ暗な中で、親が迎えに来るまで、わりと落ち着いて待機していたような気がします」 ――下校後は。 「多賀城市にある父の実家が高台なので、車でそこに向かいました。カーラジオで大変なことになっていることを知り、翌朝も停電、断水が続いていたことで、だんだん現実がわかってきました。寒かったですし。3日後くらいに塩竈市の自宅に戻りました」 「4階に自宅があったマンションは、1階部分が津波で大変な状況でした。水道も電気もガスも復旧しておらず、飲料水は市役所までくみにいきました」 ――逆境の中で物理五輪の代表になるための準備はどうされましたか。 「3月末に東京で合宿があって、そこが代表の最終選考の場でした。過去問は紙に印刷していたので、日が出ている間はそれで勉強して、日没後は寝る、そんな感じでした。電気がないのは本当に不便です。夜、窓の外をみると電気が戻っている地域があるのに、自分のところには電気が来ない日が続いていて、1週間以上たって復旧したときは、本当に助かったと思いました」 「東京へは仙台駅まで車で親に送ってもらい、バスで向かいました。合宿が終わって、電話で代表決定の連絡をもらったときは『よかった』と。絶対『金』がとれるほどの力は自分になかったので、できるだけいい結果を出せればと、大学受験のことは気にせず、それまで通り(物理五輪に向けて)勉強しました」 ――物理五輪の開催地だったタイのバンコクではどう過ごしましたか。被災地の期待もあったかと思いますが。 「できるだけ海外の人と交流しようと、積極的に話しかけたり、懇親会でダンスしたり。(震災が話題になった際には)外国の生徒にも自宅前の写真を見せました。かなりびっくりされましたね」 「本家本元のオリンピックではないので、自分はとくに(被災地の期待を)意識してはいませんでした。周囲がそういうことを表に出さずにいてくれたのも、ありがたかったと思っています。その中でよい結果が出たことは何より自信になりました。大学に入ってから、より自発的に活動するようになれたのも、そのおかげがあったと思います」