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MotoGP:ビッグクラッシュから不屈の闘志で走り続ける関口太郎/世界で活躍した日本人ライダー

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オートスポーツweb

 2007年シーズン、サマーブレイク明けのMotoGP第12戦チェコGP。決勝日は快晴となり、多くの観客がブルノ・サーキットに詰めかけていた。この年、アプリリアRSV250をライディングする関口太郎は、カンペテーラレーシングで3年目を迎え、日本GPに向けて調子を上げてきていた。しかし…。 【写真】2007年MotoGP第12戦チェコGPのビッグクラッシュ後ブルノ大学病院に搬送された関口太郎  4コーナー立ち上がりでジレラを駆るマルコ・シモンチェリがリヤをダートに落としてしまい砂埃を舞い上げて転倒。シモンチェリはアウト側のグラベルにすべっていったが、マシンはコースの真ん中に残ってしまう。その直後に砂埃の中から表れた太郎は、目の前に横たわっているマシンに気付きフルブレーキングするが、次の瞬間、マシンに乗り上げると一回転し路面に激しく叩きつけられてしまう。太郎は、うつぶせになったまま力なくアスファルトを滑走し、コース上に止まるものの動くことはなかった。 「後から映像を見ましたがアクシデントの記憶は全くないですね。転倒する2、3周前に(青山)周平が前を走っていて1コーナーに入ったところまでは覚えているのですが…」  後にデータロガーを見るとマシンに乗り上げた時点で180km/h出ており、その衝撃的な映像を見ると、最悪の事態を容易に想像できた。すぐにメディカルが駆けつけ、ヘリコプターでブルノ大学病院に搬送された太郎は、左肋骨を3本折り、それが肺に刺さり肺気胸となっていた。さらに骨盤と、その周辺を5カ所も骨折していたため、薬で敢えて意識を戻さないようにされていた。そしてICUから一般病棟に移されたのは、2日後の火曜日。そして太郎は、意識を取り戻す…。 「目を覚ましたときに“あれ? ココはどこだ?”と思ったんです。キャンパーじゃないし、心電図を測る機械が“ピッピッ”と鳴っていたので病院ということが分かったのですが“何でココにいるんだ?”と思いましたね」  約2週間で退院し帰国。日本GPでの復活を目指したが、メディカルチェックでドクターストップがかかり無念の欠場。アクシデントから僅か1カ月では、無理な話であったが、その次のオーストラリアGPで復活。マレーシア、バレンシアと戦い抜き2007年シーズンを終えた。 「(世界で)やり切った感は、ありましたね。カンペテーラレーシングで2年目のシーズンは、型落ちのワークスマシンに乗れる話もありましたし、開幕前のIRTAテストでは、けっこう速く走ることができましたから。調子がよくなってくると大きなケガをしてしまいチャンスをつぶしていましたから、運にせよ実力にせよ、自分自身に何か足りない部分があったんでしょうね」  2001年に全日本ロードGP250クラスでチャンピオンを獲った関口は、2002年よりKULZ YAMAHAからロードレース世界選手権250ccクラスにフルエントリーするが、契約の問題でシーズン途中に解雇されてしまう。再びチャンスをつかむために2003年はヨーロッパ選手権250ccクラスに参戦し8戦全勝でチャンピオンを獲得。2004年より世界に復帰。2005年よりカンペテーラレーシングでアプリリアをライディングするチャンスをつかみ取っていた。  しかし、2005年、2006年と開幕前のヘレステストで2年連続大ケガを負ってしまう。厳しいリハビリの日々に明け暮れ復帰を目指した。満足行く身体で走ることはできなかったが、不屈の闘志でチャレンジを続けた。  フル参戦最後の年となった2007年も前年の負傷から、ようやく完治しかけていた矢先でのアクシデントであった。 「多くの方に支えられながら、自分自身の力で世界を走っているという自負がありましたからね。同じクラスを走る3人の日本人ライダー(青山博一、高橋裕紀、青山周平)には絶対負けないという気持ちで走っていましたね。でも自分自身で交渉してスケジュールを組んだり、いろいろ段取りをしたりすることは、大変でしたが、貴重な体験になりました」  世界を走るために培った経験が生き、太郎は、44歳となった現在も全日本ロードレース選手権を走り続けている。2020年シーズンは、昨年、休止していた自らのチームを再始動させ、最高峰クラスJSB1000クラスにBMW S1000RRで“SANMEI Team TARO PLUSONE”としてフルエントリーする。8月のSUGOラウンドより、ようやく始まる全日本ロードレース。その勇姿をぜひサーキットで見てもらいたい。 [オートスポーツweb ]

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