Yahoo!ニュース

IDでもっと便利に新規取得

ログイン

仙台育英の元10番・パンサー尾形のサッカー史、指導者への思い。「自分を作ったのはサッカー」

配信

HOMINIS(ホミニス)

お笑いトリオ・パンサーの尾形貴弘は名門・仙台育英高校で10番を背負い、中央大学の体育会サッカー部に所属。川崎フロンターレに所属する中村憲剛選手の先輩でもある(尾形が4年生のとき、中村選手は1年生)。昨年よりボルシア・ドルトムントのブランドアンバサダーを務め、「自分の人間性を作ったのはサッカー」と豪語するほど尾形に、サッカーとの思い出を語ってもらった。 【写真を見る】学生時代のサッカー史を語るパンサー尾形 ■"ドリブルの楽しさ"に引き込まれた 僕は宮城県の東松島で育ったのですが、野球やサッカーといったスポーツをやっている人がほぼいない田舎でした。サッカーとの出会いは小学1、2年生の時。神社の鳥居をゴールにしてボールを蹴っている年上のお兄ちゃん方がいて、彼らに誘われて仲間に入れてもらいました。そこで、お兄ちゃん達全員を抜いたんですよ。 「こんな気持ちいことってあるのか!」と感じたのを鮮明に覚えています。あまりに楽しくて、帰ってから家族に「サッカーをやりたい」と伝えました。すると父親がすぐにサッカークラブを探してくれたんです。地元の小学校のクラブは5年生からしか入れなかったのですが、少し離れた町にチームを発見して、そこに入りました。 放課後、赤いジャージに着替えてボールを持って、毎日電車で通っていました。漫画みたいな話ですけど、最前の車両から最後尾の車両までドリブルで乗車客を抜いたり、リフティングしたり、と。移動中も練習をしていて、地元では有名でした。高校生になった時に「電車でサッカーをやっていたあの子か!」と何度も言われました。 サッカーを始めた原点が"人を抜く楽しさ"だったので、小学生の時からずっとドリブラー。パスはしないで、全員抜いて自分でゴールまでボールを運んでいました。 中学も高いレベルでサッカーをしたい思っていた中、松島の学校の監督にお声がけいただき、単身で乗り込みました。中1から一人暮らしをしてたんですよ。 ただ、チームではスイーパーをやらされました。ドリブルが好きだったので前線をやりたかったのですが、後ろを任されたんです。「なんで後ろなんだよ」と思いながらプレーしていたんですけど、結果的に後々に生きました。高校に入ると自分のドリブルは通用しなくなって、ボランチに落ち着いたのですが、中学時代にポジショニングやディフェンスを学んでおいてのがここで活かされました。当時の先生には感謝ですね。でも、チームで一番点をとっていたのは僕だったんですよ!後ろからドリブルで全員抜いて、と。 そして、地元でドリブルという武器で結果を残し続けたことによって、宮城県選抜に入ることが出来ました。選抜の練習場所は仙台だったのですが、そこで大きな衝撃を受けましたね。 仙台は東北でも都会なので、かっこいいチームメイトが多かった。アシックスやプーマのジャージを着ているんですよ。僕が着ているのはノーブランドで、野球のスパイクみたいなものを履いていて。恥ずかしくなり、プレーも消極的に。劣等感があったせいで、得意なドリブルをせずにバックパスばかりで自分の特徴を全く出せない。辛い日々が続きました。 ■気持ちを取り戻させた父親の一言 ある日、選抜の練習に行く途中に車の中で親父から「勘違いしていないか。お前に誰も期待していないし、お前がサッカーが上手いとかはどうでもいい。楽しくやればいいんだよ!」と言われたんです。その一言がガツーンと来て。その日の練習は吹っ切れて全員をドリブルで抜いて、レギュラーにもなりました。この経験は本当に大きかったです。大学、そして社会人までサッカーを続けられたのは親父のこの一言のおかげです。 仙台育英へ進んだのは中学校の県大会がきっかけです。結果は良くなかったのですが、当時の監督であるブラジル人のムニールさんが声をかけてくれて、育英のサッカー部に入ることが出来ました。特待生ではないのですが、優遇がとても良かったんです。合宿や練習着、1年生16人だけが行けるドイツへのサッカー留学にもお金がかかりませんでした。 当時の宮城県にはチームメイトだった中島浩司(ジェフユナイテッド千葉やサンフレッチェ広島に所属)や、東北高校の平間智和(横浜F・マリノスやベガルタ仙台に所属)、東北学院の千葉直樹(ベガルタ仙台などに所属)のようにすごい選手がたくさんいて。彼らを見て「ドリブルやテクニックで勝つのは無理だ」と思いました。そこで、「自分は上手い選手のサポートに回ろう」と。ドリブラーとしてのプライドを捨て、ボランチになりました。プレースタイルもファイターになって。負けず嫌いな性格も相まって、チームメイトの浩司とよくやり合ってましたね。 高校時代は選手権もインターハイもいけませんでした。印象的なのが3年生のインターハイ予選。平間擁する東北高校と決勝で当たり、引き分け。この試合、延長後半でPKを取ったのですが、チームメイトがそれを外してしまい再試合になったんです。それもまた引き分けて、最後のPK戦で負けました。本当に紙一重の差で優勝できなかったんです。サッカー人生で一番、悔しかった試合です。 中央大学は声をかけてもらい進学したのですが、高校の時以上に周りの人は上手いし、挫折をしたことがないのでプライドが高い。その中で、試合に出られないことを監督や周りのせいにする選手が多かったと思います。プライドが邪魔をするんです。 僕も最初はプロは目指していましたけど、周囲の凄さを見て諦めましたね。印象的だったのはセレッソ大阪のサテライトと試合をしたとき。当時、レギュラーだった西澤明訓(元日本代表)選手が怪我明けで、調整としてサテライトの試合に出場したんです。僕はCBで彼をマークしていたのですが、西澤さんが目の前でジャンプしたとき、僕がヘディングでも届かない高さのボールを胸でトラップしたんですよ。ジャンプが高すぎて、スパイクの裏が見えました(笑)。このとき「プロは無理だな」と思いました。本当に飛び抜けている人、どうあがいても追いつかないものを持っている人はいるんだな、と。 ■ドイツでプレーしていた可能性も... 2019年からドルトムントのブランドアンバサダーをさせてもらっているのですが、サッカーの仕事がこういう形でできて嬉しく思っています。 実は先程話した高校1年生の時のドイツ遠征で、体がキレキレでドリブルもめちゃくちゃ成功していたんです。その時、ドイツのチームから「残ってください」と引き抜かれそうになったみたいなんですよ。これは後から聞いた話なのですが。だから、今回の件は不思議な縁を感じましたね。ドイツに縁があるのかな、と。 ドルトムントの試合はちゃんとチェックしてます。好きなのはサンチョやブラント。ブラントに関してはトップ下もボランチもできますし、贅沢な使い方ができる。こんな選手いるのか!と思いました。 歴代で一番好きな選手はレドンド(元アルゼンチン代表、レアル・マドリードなどに所属)です。芸人になって初めて組んだコンビ名をレドンドにするくらいくらい好きでした。ボランチですけど前のポジションもできますし、テクニックもある。アウトで持って方向転換する動作がかっこよくて、真似をしていました。今の子達にもぜひ見てほしいですね。 ■将来的には指導者も 自分の人間性はサッカーが形成してくれました。将来的にはコーチのライセンスも取ろうと考えています。プロを目指す大学生や高校生に「プライドを気にするな、サッカーが好きなら楽しくやれ!」ということを伝えたいです。講演会で話もしてみたいですね。プライドがサッカーの成長を妨げていることに気づいていない人は多いと思いますし、挫折したことがない人は特にそう。大学生で初めて挫折した時に、這い上がり方をわからないということはあるのかな、と。 あと、いつか地元に戻って指導者もしたいなと考えています。すごく田舎で、サッカーを教えてもらえる環境がなかったですから。そういった地域の子どもたちに教えてあげたいな、と。 僕は毎日毎日、サッカーしかやってきませんでした。サッカーが僕の人格を作ったと言っても過言ではないです。諦めないことやパワーの出し方とかは、サッカーで培ってきました。その精神力を活かして芸人をやっています(笑) そして、プロになることの難しさを肌で感じたので、サッカー選手を見ると「凄い...!」と思うんです。すごく尊敬しています。有名な俳優さんや歌手の方に会うよりも、サッカー選手に会ったときが1番緊張します。 彼らはいま、次の試合のため、みんなの前に出るために家で努力していると思います。次に選手たちを見た時、ファンはこれまで観戦していなかった分、感動が強くなることは間違いないです。それは楽しみにしていてもらいたいです。 あとは、今だからこそ、昔の選手の動画、例えば白黒の時のペレのスーパープレーやマラドーナの緩急あるドリブルとかを見てほしいですね。レドンドの動画も見てください、アウトでボールを持ってターンするプレーが本当に凄いので! 今でもやること、できることはたくさんあります。だから、変に悲しまないで、昔のサッカーを振り返ったりして、その時が来るのを待って欲しいですね。あとは、尾形軍団のYouTubeも見てください! ・YouTube「パンサー尾形の尾形軍団チャンネル」 https://www.youtube.com/channel/UCwjidOKo0GH6fa3KyTgAS4w 取材・文=竹中玲央奈

HOMINIS

【関連記事】