ラーメン日本一のオヤジを支えた息子に父がラーメン作りを一切教えなかった理由「ラーメンは教えるものではない。なぜなら…」
震災で東京のお店を撤退した父子のラーメンの行方は…
大学卒業後、誉幸さんは本格的に店に入って働くようになった。 その後、東洋大のある東京・白山に支店をオープンし、誉幸さんが店長としてお店に立つ。その翌年、表参道にも支店をオープンし、父と二人で店を切り盛りするようになった。 しかしその頃、東日本大震災が発生し、福島県は風評被害で大変なことになる。ここは東京のお店は閉めて本店の営業に集中しようということになり、再び白河に帰る。 「当時、福島には住めるか住めないかというぐらいのレベルでした。白山のお店もクオリティがまだまだでしたし、一からやり直す思いで白河に戻りました」(誉幸さん) 誉幸さんはこのとき、自分のラーメンを見つめ直したという。 自分が打った麺はなかなかスープが持ち上がらないので、油でごまかすしかなかった。一方で、父のラーメンは油分がほとんど浮いていないのにしっかりスープを持ち上げる麺になっている。友人にも「全然おいしくないね」と言われ、一から麺打ちやスープを練り直していくことにした。 自身のラーメン作りを試行錯誤している間に、白河出身の知人が営む栃木県那須塩原市のラーメン店が閉店するという話が飛び込んできた。もう一度、自分の店をやりたいと考えていた誉幸さんは、この店の跡地で自分の店をオープンすることにした。 こうして、震災後の2011年秋、「手打 焔」はオープンした。 昔から(栃木県の)黒磯や那須塩原は誉幸さんの大好きな場所で、父ともよく遊びに来ていたそうだ。このエリアの人は白河に行ってラーメンを食べることが多く、白河ラーメンにも馴染みのある土地である。 しかし、オープンから3年間は鳴かず飛ばずの日々が続いた。1日20杯しか出ない日もざらにあった。当初は、朝3時に起きて白河に行って仕込みをして戻ってきて営業という日々が続き、メンタル的にもつらい日々だったという。 自分に父と同じラーメンは作れない。 そう思った誉幸さんは、「火風鼎」で学んだことをベースにしながら独自の味を追求し続けた。スープは、鶏とゲンコツを7種類使い、清湯ながら分厚い旨味。手打ちならではの麺は、柔らかい部分と硬い部分があって食感も楽しく、少しざらっとした麺肌も素晴らしい。 チャーシューはスモーキーに仕上げた突き抜けるおいしさで、味のアクセントになっている。白河ラーメンスタイルをブラッシュアップさせた最高の1杯が仕上がった。