「自分の代で終わりかも」と考えた菓子職人 なぜ売り切れ続出の人気店になれたのか
城下町として栄えた三重県伊賀市の和菓子店「くらさか風月堂」の3代目・倉阪浩充さんは、かつては来店客がほぼおらず、一時は廃業も覚悟した家業を、売り切れ続出の人気店に変えました。内向きの経営を顧客視点に変えつつ、無理のない経営改善が実を結びました。
作業場にひきこもってお菓子作り
くらさか風月堂は倉阪さんの祖父が100年前に創業し、父親が2代目を継ぎました。倉阪さんは双子の長男として生まれました。小さな頃は、弟と粘土でお菓子の形を作って遊んでいたそうで、高校卒業後に京都の和菓子店で、5年間の予定で修業に入りました。しかし、体調を崩して予定よりも1年早く家業に戻りました。 治療を続けながら、父親と店に立つこと約1年。今度は父親が脳腫瘍で突然倒れました。一命は取り止めたものの、店に立てる状態ではなく、倉阪さんが店を切り盛りすることになりました。「父は入院、自分も体調が悪く、本当に大変でした。接客などは母親に任せて、職人として目の前の注文を必死でこなしました」 当時のくらさか風月堂は、スーパーなどへの卸販売と、昔からのお得意さんからの注文品が、メインの収入源でした。松尾芭蕉生誕の地として知られる伊賀市は、城下町として栄え、和菓子文化が根付いており、茶道とも縁の深い土地柄です。冠婚葬祭には和菓子を使い、お茶席も多く、注文品だけで十分に店の経営が成り立ったのです。「来店客はほとんどおらず、私は誰にも会わず作業場にひきこもってお菓子をつくっていました。お客さんの顔も分かりませんでした」
課題が何かも分からなかった
倉阪さんが25歳のとき、父親が息を引き取りました。「まだ駆け出しで、伊賀地方ならではの和菓子の文化や作り方を父に教わっている途中でした。一緒に作業場に立っていたときは、ケンカばかりしていましたが、もっと学びたかったし、父も教えたいことがたくさんあったと思います」 3代目となった直後の26歳の時、妻の千鶴さんと結婚しました。看護師として、病床の父を担当していたのが縁でした。「結婚当初は私の体調も良くない中で、注文品も年々減り、商売はギリギリでした。妻は『お店に万が一のことがあっても私が働くから』と、看護師を続けながら心身ともに支えてくれました。今も頭があがりません」 苦境にあっても後を継いだ以上は、生き残りを考えなければいけません。「城下町には老舗の和菓子店が数多くあります。歴史では300年、400年の店には敵いません。知名度も高くないし、職人は私ひとりで量産もできない。正直、課題が何かも分かりませんでした」 試行錯誤の中で、唯一はじめたのが茶道でした。茶道に精通することで、京都で学んだ「上生菓子」を軸に、季節感のある商品を強みにしようと考えました。「茶道は20年以上続けています。春には春の、夏には夏の和菓子があり、季節感を感じてもらいたいという思いは、若い時からぶれませんでした」