2014年のテレビを振り返る(3)── 「美談」「イイ話」にだまされた1年 水島宏明
ありえないはずの佐村河内氏の半生がもっともらしく感動物語に仕立てられて、放送されてしまったのはなぜなのでしょう? それはテレビ番組が「美談」や「イイ物語」を求めているからです。殺伐とした時代ですが、みんなどこかでありえないような「感動物語」を見たい、多くの視聴者はそれを見たいと感じています。制作者もそうした物語を心の底で探しているところがあります。「イイ話」「美談」に対して、どうしても疑いの目で考えるということは「いけないのでは?」という抑制心理が働いてしまいます。 佐村河内氏が作り上げたのは、いわば「理想の美談」でした。聴覚に障害を持っている作曲家。まるでベートーベンと二重写しです。それが障害と合わせて、原因不明の「耳鳴り」に妨害されながら、這い回って苦悩の中で天からの啓示である音を受け取って、曲として紡いでいくのです。 彼は被爆2世で、いつも苦難と闘って心に傷をかかえた人たちのことを思っています。被爆した人たちを思って曲を作って、コンサートを開き、東日本大震災で親を失った子どもや障害で義手の少女のために演奏会を行います。 テレビが求めている「完全な筋書き」でした。 佐村河内氏は謝罪会見の中で「大きく取り上げられ、自分が制御できないほど巨大化し、いつかばれるのではと怖くなった」と話していますが、これはおそらく彼の偽らざる実感だと思います。彼が作った美談が、それをもっと感動的な美談に仕立て上げたいテレビがますます大きな美談にしていき、本人でさえも制御できないほどの巨大なものになっていったのです。 障害者が思わぬ才能を発揮する、という美談に酔いやすい人は、どちらかといえば、善良な感激屋の人が多いと思います。テレビ番組の制作者にもその種のことに疑い深い人と単純に信じ込みやすい人の2種類に分かれます。どちらかといえば、同じ制作者といっても、報道畑の人は疑いやすく、制作畑の人は信じやすいように思います。信じやすい人は障害そのものを疑う目も曇りがちです。 「聴覚障害というけれども、本当は聞こえているのではないか?」 そう考えること自体、不謹慎に感じられるからです。疑いが心の中で持ち上がったとしても自ら塞いでしまいます。 そういうふうに「美談」は自己増殖してしまい、チェックがしにくくなってしまいます。もし、どこかで交響曲などのクラシック音楽について専門的な知識を持つ制作者がかかわっていたら、番組のチェックは多少違ったものになっていたかもしれません。しかし、ほとんどの番組ではそうした専門的なチェックをすることなく本人による自己申告をそのまま信用した放送が流されてしまったのです。 テレビという映像メディアは、ドキュメンタリーでもドラマでもあるいはニュースであってさえも、「物語」にして伝えます。映像メディアではどうしても主人公を設定して、その人物の泣き笑いや苦難の末の成功物語で進行していく伝え方だと視聴者には分かりやすいのです。