<報国のペン>太平洋戦争、そのとき新聞は 書けなかった、書かなかった「事実」 戦争と西日本新聞(1)
先の戦争にペンで加担した「報国報道」は、西日本新聞も例外ではなかった。当時を振り返り、これからの報道にどう向き合うべきか、考える糧としたい。 ※この記事は2015年に掲載したもので、年齢などは当時のものです。 ■ ■ ■ 書きぶりはすこぶる勇ましい。〈日頃の訓練の腕前ふるって見事に撃退、緒戦必勝の凱歌(がいか)をあげた〉。1944年6月17日付の西日本新聞朝刊は、1面トップで後に「八幡空襲」と称されるニュースを報じた。 米軍のB29による初めての本土空襲だった。50機近い大型爆撃機が現在の北九州市に飛来、西日本最大の兵器工場だった小倉陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)などを標的とした。 1面記事には〈我が方の損害は極めて軽微〉と見出しが付けられている。文中でも、10機を撃墜し、犠牲者は地上部隊2人のみだったことになっていた。 だが実際は-。北九州市史によると、造兵廠の女子挺身(ていしん)隊員ら約80人を含め、死者・行方不明者が257人に上ったという。決して「軽微」ではなかった。 ■ □
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