"タワマン"の日本初の住人は織田信長だった? 安土城の「天守」ではなく「天主」で暮らした偉大な権力者の野望
天主と本丸、焼失させた"犯人"は?
そんな栄華を誇った安土城も、天正10(1582)年、京都本能寺で明智光秀の謀反に遭って信長が横死するや、山崎の合戦の後、天主と本丸が焼失してしまいます。なんともったいないことか。その犯人は、大きく分けて4説あります。 (1)落雷による焼失説(2)野盗による放火説(3)明智光秀の重臣である明智秀満が本能寺襲撃の後、安土城に入り火を放ったという説(4)明智秀満は放火せず、城で自刃した後、城に入った信長の次男信雄が、明智の残党におびえ放火してしまった説です。私はどうも(4)のような気がします。織田信雄という人は、小牧・長久手の戦いの有様を見ても、判断がぶれる人でした。戦国武将のなかでも人気のない人ですが、安土城を焼失させたのも、「彼ならなあ」と思う人たちが作った話なのかもしれません。
バチカンに行ったが、発見できず
歴史は面白いもので、期待された長男の信忠は本能寺の変で死に、三男の信孝も賤ヶ岳の戦いで柴田勝家につき自害させられてしまいますが、信雄は日和見で関ヶ原の合戦、大坂の陣を生き抜き、寛永6(1630)年まで73歳の天寿を全うしています。 安土城の天主や城下を描いた屏風があると、ルイス・フロイスの『日本史』には書かれています。屏風はヴァリニャーノという宣教師に贈られ、ローマ法王庁が保管したことがわかっており、滋賀県の調査団がバチカンに調査に行きましたが、発見できませんでした。 【安土城】 織田信長が天正4(1576)年、丹羽長秀に命じて3年の月日をかけて完成した。1582年、本能寺の変の後に焼失したため、謎が多く、1989年から20年かけた滋賀県の調査で様々なことがようやく明らかになったが、天主の形など姿など解明されていないことも多い。安土城址はそう見寺の所有地となる。 入山料:大人700円、小人200円(高校生以下) 拝観時間:8時30分~17時 年中無休 城址下に無料駐車場あり 住所:滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6371 電話:0748-46-6594 ■安土城屏風絵 信長がイエズス会巡察師のヴァリニャーノに贈った屏風絵(作者は狩野永徳とも)の複製。この絵は天正遣欧使節団の4人の少年とともに海を渡り、ローマ法王・グレゴリオ13世に献上され、その後行方不明になったとされる。 【織田信長】 おだ・のぶなが。1534~1582年。1560年、桶狭間の戦いで今川義元を破り、美濃の斎藤氏も攻略。足利義昭を擁して上洛し、朝廷の権威を弱体化させ、後に義昭を追放して室町幕府を倒した。武田勝頼を長篠の合戦で打ち破り、毛利を攻め、天下統一にあと一歩のところで、明智光秀の謀反に遭う。楽市楽座を推し進めるなど合理主義者として知られ、日本史上最も偉大な人物のひとりに数えられる。 松平定知 (まつだいら・さだとも) 1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。京都芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。 ※『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)から転載 ※トップ画像は、焼失前の正殿。「Webサイト 日本の城写真集」より。