"タワマン"の日本初の住人は織田信長だった? 安土城の「天守」ではなく「天主」で暮らした偉大な権力者の野望
「天守」とはいわず「天主」
大手道はなぜそんなに広いのかというと、天皇が安土城に来られることを想定していたからです。京都の時代祭でご覧になったことがあるかもしれませんが、天皇の行幸は、鳳輦(ほうれん)という大きな御輿でお越しになるわけです。そのための大きな道だったわけです。天皇をお迎えする本丸は、信長の起居する天主よりも下にあり、天皇を見下ろすことにもなります。 信長は天主で起居し政務を取り仕切っていました。天守とはいわず天主といいます。日本初の"マンション"(高層住宅)の住人は、間違いなく信長でした。家族も本丸付近で生活したほか、秀吉や前田利家などの住居は城下ではなく、天主に通じる道の入ってすぐの左右にありました(利家のほうは疑う声もありますが)。なお、彼らの城の出入りは「大手道」ではなく、裏側の「搦め手道」でした。
必ず俺様を拝め
安土城の天主は特殊です。ほかの城の天守には見られない特徴がたくさんあります。例えば「吹き抜け様式」もそのひとつです。これは宣教師からヨーロッパの建築物を見聞きし、参考にしたのだと思われます。また城内にそう見寺(※そうけんじ、「そう」は本来漢字で、「總」の糸編ではなく手偏)というお寺がありました。 天主台の南西、百百橋(どどばし)口という入り口があり、用事のある人は皆ここから城内へ入ります。つまり城への通り道がそのまま境内になっています。 当時日本に来ていたポルトガルのイエズス会宣教師、ルイス・フロイスによれば、そう見寺には「盆山」という石が置かれ、自身のご神体としたそうです。つまり、城下町から城に行くものは、必ず俺様を拝めということなんです。城郭内に伽藍のある寺院があるのは安土城だけです。
復元された天主も絢爛豪華
安土城の天主5、6階は復元され、近くの「安土城天主信長の館」に展示保存されています。金碧の障壁画は狩野永徳の手によるものといわれますが、復元された天主も絢爛豪華で、思わず息を呑みます。信長には、日本の宗教や思想をひとつにして、己がその上に君臨するといった思想があったのでしょう。 安土城で注目すべきはその立地です。干拓が進んだ現在ではうかがい知れませんが、信長の頃は琵琶湖に接していて、舟を使って様々なところへ向かうことができました。京にも舟ならすぐでした。さらにここは中山道が通り、かつての拠点岐阜にも近く、北国にも睨みが利く場所です。信長は安土城下で楽市・楽座を開きますが、いろいろなものが集まってくる物流の拠点だったわけです。