【背番号物語】DeNA「#18」“横浜ナンバー”の系譜は波乱万丈。カミソリシュートの元祖、28連敗、完全試合……
38年ぶり日本一の98年に
“横浜ナンバー”と聞いて、バブル期の都市伝説を真っ先に思い出すのは古い人間なのかもしれない。いま“横浜ナンバー”といえば、横浜(現在のDeNA)が38年ぶり2度目のリーグ優勝、日本一に輝いた1998年に「46」から背番号を変更し、低迷していくチームで孤軍奮闘した三浦大輔の「18」のことだ。リーゼントのヘアスタイルとともに、トレードマークとなっていた背番号。車につけて女性をナンパするツールではなく、“ハマの番長”が最後まで背負い続けた硬派の象徴でもある。 三浦はチーム名が横浜大洋ホエールズだった92年に入団。ドラフト6位という下位で指名された18歳のルーキーだったが、1年目から一軍のマウンドを経験して、自身の2年目、チームが横浜ベイスターズとなった93年にプロ初勝利を挙げると、その後は着実に成長を遂げる。97年には初の2ケタ10勝。迎えた98年には自己最多の12勝を挙げて、38年ぶりの快挙に貢献した。 だが、そこからチームは失速する。三浦は2000年から2年連続11勝も、02年からは故障や手術もあって精彩を欠き、チームも3年連続で最下位に沈んだ。それでも、05年からは2年連続でリーグ最多投球回と投げまくり、その05年は自己最多に並ぶ12勝に加え、防御率2.52、177奪三振で初タイトルとなる最優秀防御率、最多奪三振の投手2冠に輝いて復活。2段モーションで軸足に重心をためて、抜群の制球力で外角を中心に投球を組み立てるスタイルの集大成だった。 しかし、なかなかチームは浮上せず。さらにオフ、2段モーションが禁止される逆風。三浦は大幅にフォームを変えて07年と09年にも11勝を挙げたが、これが最後の2ケタ勝利となる。ベテランの域に入ってからもチームには三浦を超える存在は登場せず、長くエースとしてチームを支え続けた。プロ25年目、16年いっぱいで現役引退。打ちまくられながらも投げ続けた引退試合は、その波乱万丈のキャリアを象徴するようだった。 そして、「18」は“横浜ナンバー”として欠番となったが、DeNAの歴史において、ひとつの背番号が特別な扱いを受けるのは異例。あっさりというか、あっけらかんというか、功労者の背番号も簡単に後進へ与えることが多く、一般的にエースナンバーという印象が強い「18」もエースの系譜ではない。だが、三浦のキャリアと同様、波乱万丈の顔ぶれだ。 【DeNA】主な背番号18の選手 今西錬太郎(1950~52) 権藤正利(1954~63) 佐々木吉郎(1965~69) 鵜沢達雄(1973~78) 広瀬新太郎(1981~85) 岡本透(1988~95) 三浦大輔(1998~2016、19~20)