「鉄道は通りませんでした…」計画が二度も立ち消えになった“幻”の鉄道路線 「広浜鉄道今福線」を巡ってみた
高速道路網の整備、大都市への人口集中による地方の過疎化、移動手段の変化……。さまざまな理由が重なり、戦後から現在に至るまで、およそ400もの鉄道路線が“廃線”となり、輸送手段としての役目を終えた。 【写真】この記事の写真を見る(24枚) 一方、日本の鉄道の歴史には、計画されたものの、一本の電車も走らずに終わった路線、つまり“廃線”すら叶わなかった路線も数多く存在し、それらは“未成線”と呼ばれる。経済的な問題であったり、軍事目的で計画されたものの終戦で当初の目的が失われたり、政治的な兼ね合いであったり、完成に至らなかった理由はさまざまだ。
“未成線”巡りという愉しみ
そんな“未成線”巡りがにわかに注目を集め始めているのだ。 浜田市に遺された未成線「広浜鉄道今福線」の写真をすべて見る 「全国未成線サミット」というイベントも開催されており、島根県浜田市で行われた第3回目のサミットには、なんと総勢250名もの人々が集まった。 なぜ浜田市でサミットが開催されたのか。言わずもがな、浜田市に未成線「今福線」があるからだ。未成線は、一般的に、その後のインフラ整備等を理由に当時の姿が失われていたり、観光資源として積極的に活用すべく、敷かれてあった線路の一部でトロッコ列車を運行したりすることが多いが、浜田市に残された未成線は、当時の姿がそのまま、かつ大規模に残されている点が大きな特徴の一つだという。 移動編集部は、そんな「今福線」の遺構を巡るべく、浜田市産業経済部観光交流課の井上貴之さん、山本隆之さんの案内のもと現地を探訪した。
今福線は広島と浜田を結ぶ広浜鉄道の島根県側のルートとして、1933年に着工されるも、1940年には太平洋戦争の影響で戦時色が強まり、工事が中断。戦後、工事再開の機運が高まった。しかし、着工済み区間は補強が必要であったことや、高度経済成長期になると高速幹線鉄道や高速道路を整備する計画が全国に広がり、新しい規格の急行列車を通すには線形が悪かったことなどから、別ルートの計画へと変更された。しかし、今度は完成後の利用状況を懸念した国鉄が工事を中止したという工事凍結の歴史を持つ。2度の悲運が重なり、未成線となったのが広浜鉄道今福線なのだ。そうした事情もあり、いまもなお、トンネル・橋梁・橋脚等の遺構が広範囲に数多く残っている。 1933年に着工された路線(旧線)を広島方面へと向かうかたちで、今福線の遺構を巡る。スタート地点は、現在もJR山陰本線が走る「下府(しもこう)駅」。駅を出て百数メートルほどで見えるのが以下の光景だ。 かつての路盤跡は、現在、市道として再利用されている。その長さは全長約2km。道の先には山が見える。広島と浜田を南北に結ぼうと計画された路線なので、平地を整備してレールを敷くだけというわけにはいかない。中国地方の山間部を迂回したり、山地を切り開いたり、ときに貫いたりしながら線路をつくりあげる必要があった。