【対談】『福島が沈黙した日 原発事故と甲状腺被ばく』榊原崇仁×『孤塁』吉田千亜~終わらない福島第一原発事故を追い続ける理由~
今年3月で発生から10年となる福島原発事故。時間の経過とともに事実究明や責任追及が希薄になるなか、「なかったことにしないで」「忘れないで」と叫び続けてきた人たちがいる。東京新聞記者の榊原崇仁(さかきばら・たかひと)氏もそのひとりだ。 このたび、榊原氏が『福島が沈黙した日 原発事故と甲状腺被ばく』(集英社新書)を上梓したのを機に、『ルポ母子避難』(岩波新書)や『孤塁』(岩波書店)などの著者であるフリーライターの吉田千亜(よしだ・ちあ)氏と対談。"なかったこと"にはさせない、という一心で寄り添ってきた"その後の福島"、そしてまだ"終わっていない"原発事故について見つめ直していく。 * * * ■知りたかった「甲状腺内部被ばくの対応」 ――おふたりのご関係について教えてください。 榊原崇仁(以下、榊原) 最初の出会いは、確か2015年の5月だったと思うよ。福島県の二本松市であった「ひだんれん」(原発事故被害者団体連絡会/原発事故による損害の賠償や責任の明確化を求めて訴訟などを起こした被災者団体の全国組織)の設立総会の会場に向かうタクシーに何人かで相乗りして。ちょうど千亜さんが『ママレボ』(吉田氏が編集・執筆を務めた、福島原発事故と放射能汚染と向き合う母親たちを取材した季刊誌)で日隅賞を受賞されたタイミングで、紙面で拝見した頃だったので、印象に残っています。 僕は2013年の夏に中日新聞の北陸本社から東京新聞に異動になって、原発事故で被災した方々の取材を始めたんです。ひだんれんの集会に行ったのは、自主避難された方々の取材の一環でした。ちょうど、住宅支援の打ち切りの話が差し迫った時期で。打ち切りになってしまえば、次はきっと強制避難区域から避難されている人たちへの支援も打ち切りになると思っていたんです。そうしたら、千亜さんもその会場にいて。同じ危機感、不安を共有できたからか、そこから仲良くしていただいていますよね。 吉田千亜(以下、吉田) そう、その共有する思いがあるので、取材現場で榊原さんがいると、ホッとしたり。2015年の7月に被災した方々を対象にした政府の説明会があって、自主避難をしている方の質問を「お時間です」って書かれたボードを持って強制的に打ち切ろうとした役人さんがいたんですけど、その様子も隣に並んで撮影しましたよね。同じ気持ちでカメラを構えていたと思います。「ひどい」と。 榊原 『福島が沈黙した日』の最後に、励ましてくれた方々への謝辞を書かせていただいたんですが、そのお礼を伝えたかった方のひとりが千亜さんでした。取材を続ける仲間がいる、ということが大きな励みになりました。その千亜さんに、最初にこの本を読んでもらえたのは、本当にうれしかった。 吉田 私は、『福島が沈黙した日』を読んで、その努力と執念に「榊原さん、ありがとう......」と思ったの。内容は、つらい事実や悔しくなるような話だけれど、書き残してくださった。2016年の春に愛知県に転勤していった姿も見送っていたので、「ああ、大事な仲間が遠くに行ってしまった」という寂しさを感じていたんですが、本を読んで、戻って来るまでの2年半も必要だったんだなと感じました。 榊原 本のテーマになった「甲状腺内部被ばく」の取材は2013年の秋に始めました。チェルノブイリ原発事故では甲状腺内部被ばくが問題になったのに、福島原発事故では、誰がどれだけ被ばくしたか、政府はほとんど測らなかったんです。コロナ禍でPCR検査の数がなかなか増えなかったのと似ていますよね。きちんと調べなかった内幕をつかむため、情報公開制度(情報公開法などに基づき、行政側が持つ文書の複写を求める制度)を活用して、2年ほどかけて2万枚余りの内部文書を手に入れたんですけど、転勤になってしまって。福島原発事故の取材は管轄外になったので、関係者取材ができなくなったんです。 それでも赴任先では比較的時間に余裕があったので、できることをやろうと考えました。入手済みの文書から事故後の住民対応はだいたい分かったので、事故前に想定された対応手順を調べることにしました。実際の対応は想定通りだったのか、やるべきことをやらなかったのか検証したかったので。それでウェブ上にある政府の会議資料を読んだり、各地の図書館にある文書を取り寄せたりしました。トータルで30年分くらい。愛知にいた2年半はその作業をやって、2018年の8月に東京に戻って改めて取材して、という感じでした。