社会関係資本のダークサイド指摘 強者と弱者の構造的課題に迫る―稲葉 陽二『ソーシャル・キャピタル新論: 日本社会の「理不尽」を分析する』松原 隆一郎による書評
◆社会への違和感 あなたは? 書名は「ソーシャル・キャピタル新論」と硬く、用語も「社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)」「非凸性」「ミクロ・マクロ=リンク」「外部性」と抽象的だ。それでもこの本に惹かれるのは、語られるテーマが「表立って表現されることのない苦しみ」だからだ。 冒頭、具体例が列挙される。「なぜ賃金は目減りするのに経営者報酬だけ上がるのか」、「なぜ現場の営業部長が自腹で保険料を支払って契約を捏造(ねつぞう)するのか」、「なぜ図書館の非正規雇用司書は(低賃金で)『やりがい(頑張りたい情熱)搾取』にあうのか」、「なぜ忖度した官僚は記憶を失うのか」、等。 これらの「苦しみ」は類似の仕組みがあり、それを解き明かすのが先に挙げた抽象的な用語である。抽象的で難解に見えるかもしれないが、論理は平明。苦しみを当たり前と思い込まないよう、頑健な理屈と豊富なデータが準備されている。 「思い込ませる」常套手段として、自動車メーカーの検査不正に際して「第三者委員会」が用いる定型の説明がある。まず現場で犯人を捜す。次に原因として労働者のモラル低下と質の劣化が挙げられる。そして結論が「企業風土に問題があった」、である。 これに対抗する理論として著者が挙げるのが「ミクロ・マクロ=リンク」だ。もとはJ・コールマンの発想で、社会における因果関係にはマクロからミクロ、ミクロからミクロ、ミクロからマクロへという次元を替えて推移するリンクがあるという。ところがミクロ間の因果関係だけ見てマクロに視野が及ばないと、現場で検査飛ばしを犯したのは誰か、なぜコンプライアンスを遵守しなかったのかに説明が終始してしまう。特定の従業員が罰せられ、「企業風土の改善」が叫ばれて、第三者委員会の報告は終了する。そこに「違和感」を持たないのか、というのが本書の問いかけだ。 経営者が利潤追求に固執して現場の正規労働者を非正規に置き換え、内部留保を優先して最新技術を搭載した設備の投資を怠たるならば、老朽化した機械を持たされた非正規労働者は、現場で正規労働者と相談もできずに検査を飛ばしてしまったのかもしれない。それならば労働者を正規に雇用し最新設備を充てなかった経営陣にこそ問題があったことになる。マクロに及ぶ問題の全体像を見ないと、製造現場や組織の末端で働く一部の弱者へ負担や責任が押しつけられても理不尽と感じられなくなってしまう。 人と人が社会関係を結ぶとき、ネットワークや信頼、規範は、個人が孤立していた時よりも生産性を高めると思われてきた。確かに「社会関係資本」にはそんな「正」の面がある。けれども外部に「負」の影響を及ぼす可能性もあり、著者はそれが社会関係資本の「ダークサイド」だと指摘する。マクロを修正しない強者に問題の根があるのに、弱者に責任を押しつけてトカゲの尻尾切りをするダークサイドである。本来は経営者に改心させるべき株主総会が機能しないのは、賃金を削って利潤とし株主に回すからだ。強者のネットワークが自分達に都合よく制度を改悪している。 裏金を作ることのできる自民党員と、売り上げを1円まで税務署に追及される庶民。そんな劣化した制度を点検するのには、本書のような修理マニュアルが必須である。 [書き手] 松原 隆一郎 1956年兵庫県神戸市生まれ。東京大学工学部都市工学科卒業。同大学院経済学研究科博士課程修了。 東京大学大学院総合文化研究科教授を経て、2018年4月より放送大学教授、東京大学名誉教授。武道家としても知られる。著書に『ケインズとハイエク』『日本経済論』『分断された経済』『経済学の名著30』『消費資本主義のゆくえ』『失われた景観』『武道を生きる』『経済政策―不確実性に取り組む』『森山威男 スイングの核心』など。 [書籍情報]『ソーシャル・キャピタル新論: 日本社会の「理不尽」を分析する』 著者:稲葉 陽二 / 出版社:東京大学出版会 / 発売日:2024年09月30日 / ISBN:4130502107 毎日新聞 2024年11月9日掲載
松原 隆一郎
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