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安井かずみと中島みゆき~自粛による生活が続くなかで女性の作詞家にしか書けない”ことば”について考えた

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必要があって数年ぶりに「安井かずみがいた時代」(島崎今日子・著 集英社 2013)を読み直していたら、初めて読んだときには気にもかけなかったところに、目がスーッと引きつけられた。 そして思春期の頃に聴いていたカヴァーポップスが、一気によみがえってきたのである。 【連載】佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」 vol.144 ザ・ピーナッツ「レモンのキッス」、梓みちよと田辺靖雄「ヘイ・ポーラ」、 岸洋子「ドナドナ」、アダモ「雪が降る」…、いずれも訳詞は20代の安井かずみ(ペンネーム/ミなミかずミ)だった。 そこでオリジナルの楽曲を聴き直してみると、今でも“ことば”が輝いて感じられることに驚かされた。 Johnny Boy Take it slow Don’t you know Don’t you know 恋をした 女の子 誰でもが好きなこと 目をとじて しずかに待つ 甘いレモンのキッスよ フレッシュで かわいくて ちょっぴりと すっぱいの 青空の下で育つ 甘いレモンのキッスよ 中学と高校を横浜のフェリス女学院に学んだ少女時代の安井かずみは、深窓の令嬢として育ったのでピアノとバイオリンを習い、茶道や華道のお稽古もこなし、フランス語を勉強した。 そして文化学院美術科の学生だった21歳の時に 楽譜を買いに行った新興楽譜出版社のオフィスで、偶然のきっかけからエルヴィス・プレスリーの 『GIブルース』を和訳した。 それを坂本九が歌ってヒットしたことで訳詞の仕事をするようになり、やがて作詞も手掛けてプロフェッショナルな作家になっていく。 女性作詞家のパイオニアとなった岩谷時子は、宝塚出身のスターだった越路吹雪のマネージャーが本業だった。 しかし越路が出演する舞台のためにシャンソンの訳詞を手がけたことで注目されて、作詞の依頼も受けるようになった。 そして1964年の第6回日本レコード大賞では、ザ・ピーナッツの「ウナ・セラ・ディ東京」(作曲:宮川泰)と、岸洋子の「夜明けのうた作曲:いずみたく)で、女性として初めて作詞賞にも選ばれている。 日比谷公会堂で行われた授賞式のあとで新聞社のインタビューに応じた岩谷は、こんな心境を語っていた。 「これからは女性がレコード界で活躍するようになるでしょう。女性でなければ書けないことばというのがたしかにある」 その翌年、伊東ゆかりが歌った「おしゃべりの真珠」(作曲:宮川泰)で、安井かずみが第7回日本レコード大賞作詞賞を受賞した。 こうして高度成長期にさしかかっていた日本の音楽シーンで、26歳の女性作詞家がさっそうと活躍し始めたのである。 安井かずみはポピュラーソングというものは純粋詩でないので、日常の中に起きている出来事の断片を歌詞にしていけば、題材がいくらでもあると語っていた。 しかしそれを作品に昇華するためには、たったひとりの孤独な作業の中で、命を削るようにしてほんとうの気持ちを、わかりやすい“ことば”に構築していく努力が必要だった。 「今、今日、作詩するのは、今、今日私がこの世に生きている証拠の産物であって欲しい、と願う」 (「空に一番近い悲しみ」新書館 1970) そのようにして誕生したのが童謡を思わせる「赤い風船」(歌:浅田美代子)、ブラスロックの傑作「激しい恋」(歌:西城秀樹)、アイドル歌謡の決定版「よろしく哀愁」(歌:郷ひろみ)、シティポップのさきがけとなった「不思議なピーチパイ」(歌:竹内まりや)といった作品だ。 それを現時点から振り返ってみると、子どもの純粋さにも通じる素直な歌が、スタンダード曲として今でも生きているように思える。 あの娘はどこの娘 こんな夕暮れ しっかり握りしめた 赤い風船よ なぜだかあの手をするりとぬけた 小さな夢がしぼむ どこか遠い空 こんな時 誰かがほら もうじきあの あの人が来てくれる きっとまた小さな夢もって 日常のはなし言葉がそのまま歌になったことで、七五調の呪縛から自由になった安井かずみの歌詞は、日本的な湿気を感じさせないところが特徴だった。 しかし現在のコロナ禍がこのまま収まったとしても、こんなにさわやかな気持ちの歌がふたたび、日本から生まれてくる日がくるのだろうか。 ライブやコンサートのことを想像してみても、楽観的な気持ちにはなれなかった。 自粛の日々を続けるなかで、そうしたことについて考えれば考えるほど、懐疑的な思いにならざるを得なかった。 そんなときに思い出したのが加藤和彦と結婚すると決めた安井かずみが、最愛のパートナーのためだけに歌詞を書くようになったことだった。 ファッションリーダーでもあった安井かずみが作詞家の仕事をセーブし始めた1975年に、彼女と入れ替わるようにデビューしたシンガーソングライターが中島みゆきである。 彼女も女性にしか書けないことばを紡ぐことで、ニューミュージックのシーンに登場してきた新しい時代の才能だった。 中島みゆきはデビュー前の大学生時代にも、ニッポン放送が主催した全国フォーク音楽祭で決勝大会まで進み、すぐその場でデビューをという話もあった。 しかしその時は「できません」と言って、札幌に帰ったという。 当時の行動について、このように述べている。 実は、全国大会前にこれに曲を付けよという課題詞を出されたんです。それが谷川俊太郎さんの「私が歌う理由(わけ)」。これを出されたときには,いい気になっていた私にはショックでしたね。勝つためか、いばるためか、見下すためか。このままいい気になっていたら、歌に対して失礼になる。それで、田舎に戻ったんです (笑)。 中島みゆきは大学の国文科の卒論に「谷川俊太郎論」を書いているほど心酔していたそうだが、いつのまにか慢心していた自分の心に、もう一度きちんと向き合わなければならないと思ったのだろう。 大学を卒業後は帯広で開業医をしていた父親の産婦人科を、母とともに手伝いながら、歌に対してどう向き合えば失礼にならないかを突き詰めて、そこから音楽の道をもう一度、目指すことにしたのだ。 1975年、ヤマハが主催するポプコン(ポピュラーソングコンテスト)での入賞を経て、満を持して「アザミ嬢のララバイ」でレコードデビューを果たしたのは、歌との向き合い方が理解できたからだろう。 人の生き方の指針を示すとか啓蒙するとか、そういうえらい歌を歌う能力はないので。せめて、そうねぇ、寒いならお隣にいて体温だけでも差し上げましょうか、くらいのね、そういう気持ちで寄り添いたい。それくらいしかできないんだけど、そういう歌を書いていきたいですね。 そして中島みゆきは秋のポプコンで「時代」を唄って優勝し、「世界歌謡祭」でもグランプリに選ばれた。 さらには1970年代、80年代、90年代、2000年代にそれぞれオリコン・ヒットチャート第1位になった唯一の歌手となった。 そこで最新の全歌集(朝日文庫 2015)を取り出して、なんとなくページをめくっていたら、谷川俊太郎が解説に寄稿していた文章の中にこんなことが書いてあった。 歌はことばの隠してる意味と感情を増幅する、あるいは誇張するといってもいいかもしれない。だがそうすることで、歌は私たちがふだん捉えそこなっている言葉の意味と感情を新しくよみがえらせてくれる。メロディーとリズムに支えられたひとりの生身の歌い手の声がそれを可能にするのだ。 そうか、生身の歌い手がいる限り、歌や音楽に新しい命を注ぐことができるのだ! やっと希望が見いだせたと思ったので、ぼくは鬱々とした気持ち振り払うように本を閉じて、近所を散歩することにした。 (注)文中に引用した中島みゆきさんの発言は、関東弁護士連合会の「関弁連がゆく」からの引用です。 安井かずみと中島みゆき~自粛による生活が続くなかで女性の作詞家にしか書けない”ことば”について考えたは、WHAT's IN? tokyoへ。

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