10年もの長きにわたって戦い続けた宗教勢力。信長と講和した本願寺は、本能寺の変に関与したのか?【麒麟がくる 満喫リポート】
『麒麟がくる』でも描かれた本願寺と織田信長との戦いは、足かけ10年にも及ぶ長期戦だった。「信長包囲網」ともいわれる反信長勢力の一方の旗頭として信長と対峙した本願寺勢力との戦いの軌跡を、かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏がリポートする。 * * *
10年に及ぶ戦いの結末
織田信長が、対立関係にあった大坂本願寺への攻撃を開始したのは、元亀元年(1570)9月のこと。当時、大坂本願寺は宗教勢力としては最大・最強の存在だったといえるだろう。信長といえどもたやすく攻略することはできず、本願寺を下したのは約10年後の天正8年(1580)8月のことだった。 本願寺との戦いは、大坂本願寺だけでなく、その本願寺の指令を受けた諸国の一向一揆勢力との対決とも一体化していた。そのため、信長とその軍団は、天下統一の過程でこの本願寺攻略にもっとも多くの時間と労力を割かなければならなかったのだ。 もちろん、この10年の間に、信長は比叡山延暦寺を焼き討ちし、将軍足利義昭を追放し、浅井・朝倉氏を滅ぼし、長篠の合戦で武田勝頼を破るなど、天下人への道を着々と登りつつあった。しかし、もしこの10年に及ぶ本願寺との抗争(石山合戦)がなければ、もっと早くに天下統一事業を完成させ、本能寺の変を招くこともなかったかもしれない。 さて、その石山合戦だが、正親町天皇の指示を受けた公家の庭田重保、勧修寺晴豊の仲介工作によって、信長と本願寺顕如の間に講和が結ばれて終結したことはよく知られている。もちろん、信長本人も強く講和を望んでいて、信長サイドとして交渉にあたっていた近衛前久に、なんとか本願寺の法主・顕如を説得するよう強く依頼している。 顕如は最終的にこの講和を受け入れることとしたが、長男の教如とその支持者のグループは講和を受け入れず、父子の間は決裂した。顕如は天正8年4月に本願寺を退去して紀州鷺森(さぎのもり/和歌山市)に身を移したが、教如は本願寺にとどまって徹底抗戦を唱えていた。しかし、すでに信長に対し単独で抵抗を続けることは不可能だった。教如は父顕如の本願寺退去から4か月後に再び朝廷に仲介を頼み、本願寺を明け渡して父のいる鷺森に移った。